26.第三者の方が閃いたりすることもありますよね
シュゼットは部屋を出ていくどころかライガーの打ち捨てた弓を拾い上げ、彼の近くにまで歩を進める。
その行動にも驚かされたが、次の発言には更に度肝を抜かれた。
「結構重いんですね。どう構えればいいのかしら。立ち位置はここですか?」
「な、なにを」
「あら、ライガー様がおっしゃったじゃないですか。試しにやってみますかって」
とんでもないことを言ってのける令嬢に言葉を失う。名門の侯爵令嬢が、弓? あり得ない。冗談にしたって笑えない。気軽な気持ちで口にしてほしくも触れて欲しくもない。
(ただ黙って立ち去ってくれれば良かったのに)
こちらの要求を分かっているくせに、どうしてこうも神経を逆撫でにしてくるのか。抑えきれない苛立ちを募らせながら弓を掴む。
「返してください。か弱いご令嬢に扱える代物じゃありません」
「やってみなければ分かりませんわ。これでも体力はある方だと自負しております」
「体力は弓に関係ないですよね」
「ライガー様だって訓練すれば誰でも出来るとおっしゃいました」
「だからって貴女みたいな全くの素人が簡単に出来るわけないことぐらい分かるでしょう!」
「簡単に出来ないからこそやってみる価値があると思うのです」
引っ張り合いながらの口論に決着がつく余地すらなく。
中々奪い返せないことに痺れを切らしたライガーが思いきり弓を引くと。
「あ……っ」
「!」
勢いがつきすぎたせいでシュゼットは前のめりに倒れ込む。わずかに歪んだ顔を見て、ライガーも慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか」
「平気です。ご心配には及びません」
「まさか転ばせてしまうなんて、本当に申し訳ありません。なんてお詫びをすればいいか」
「いいえ、私が我が儘を言ったせいですから」
ライガーに手を借りながら起き上がり、軽くスカートの砂を払う。大丈夫だと笑いかけてみせても彼の表情からは血の気が引いたまま。
それも当然である。他意があろうとなかろうと、女性を傷付けるのは騎士として最も禁じられている行為だ。弱い者を守り、助けることが騎士団の掲げる宣誓。破ってしまった罪悪感が重くのしかかり、己の愚かさと未熟さにほとほと情けなくなる。
「この事は母やアウディガナ侯爵にも伝え、然るべき処分を受けます」
「そんなことして頂かなくて結構ですわ」
「そういう訳にはいきません。騎士候補として自分の行動に責任は取らなくては」
「……でしたらお願いがあります」
今すぐにでも部屋を飛び出していきそうなライガーを引き留め、先ほど取り合った弓を指し示す。
「弓の打ち方を教えてください。それでこのことはお互い水に流しましょう」
***
長い押し門答は結局シュゼットに軍配が上がった。というより、頑なに意見を曲げない彼女にライガーが折れざるを得なかった。
そして今、彼は後ろから抱き込むような形でシュゼットに弓の打ち方を教えている。素人の女の子に一人で打たせる訳にいかない故の配慮だが、端から見ると中々に誤解されそうな構図である。
「目標物を見定めて、弦を引きます。このとき視線はやや上目にしてください」
「上を……」
「肩に力が入りすぎです。そう、そのまま肘は水平に――打つ」
放たれた矢は途中で力なく失速し、的のかなり手前の地面に弾かれた。落胆する様子もなく即座に「もう一度お願いします」とシュゼットは瞳を輝かせる。
反抗する気力もないライガーは言われるがままだ。母親が見たら卒倒するだろうなと他人事のように思いながら幾度となく教授を繰り返す。
こんなのが本当に楽しいのだろうか。素朴な疑問だ。当然と言えば当然だが、矢は的に当たるどころか届きすらしていない。打つ毎に多少の進歩は見せるものの、的を射るまでには至らないだろう。
そもそも侯爵令嬢が嬉々として弓を打つとは一体どういうことなのだ。社交辞令で関心を示すことはあっても実際にやってみようとする令嬢なんている筈がない。いや、此処にいるが。レオガルドの婚約者なだけあってやはり相当な変わり者のようだ。
「……楽しいですか」
「はい、とっても!」
「今はいいかもしれませんが、結構腕の筋力を使うから明日には筋肉痛で大変なことになりますよ」
「まあ。今夜はしっかりマッサージをしないと」
「皮も剥けるしマメも出来やすい。訓練後には目の疲労で頭痛が起こることもあるし」
「あんなにも遠い的を狙うために神経を研ぎ澄まし続けるのは並大抵のことではありません。当然だと思います」
苦し紛れのデメリットも少女の気を削ぐには到らない。何度目とも知れない溜息をつくと同時に、何かがちかりと目を引いた。
深い海を思わせるような大きな瞳。興奮と高揚に彩られ、きらきらと輝くエメラルドグリーン。眩しさすら覚えるその煌めきに何故だか見覚えがある気がして、目を逸らす。
「ライガー様は?」
「え」
「弓、楽しいですか」
何かと思えば。馬鹿馬鹿しいとばかりに溜め息をつく。
「別に、楽しいとか楽しくないとか関係ありません。必要だからやっているだけです」
「楽しくありませんか」
「だから楽しいからやっている訳では、」
「でも嫌いではないのでしょう?」
どこか確信のこもった台詞に思わずシュゼットの顔を見る。どこまでも澄んだ瞳で微笑み返され、言葉に詰まってしまう。反論はいくらでも出てくるのに、何一つ音に変換されてくれない。指導を再開しても頭の中でぐるぐる回り続ける。嫌いではない?
(そんなこと、考えたこともなかった)
絶望の中で出会った弓術。弓の重さ、弦の固さ、弓の不安定さ。全部覚えている。翌日筋肉痛に呻いたことも、中々思うように飛ばなくて地団駄踏んだことも、初めて矢が的に刺さったときの感動だって――瞬間、そのときの自分と目の前の少女の姿が被る。
そうだ、知っている。その輝きは以前、ライガー自身が灯していた。レオガルドに壊され、砕け散ってしまったけれど。父に憧れ、騎士に夢見た幼き日の自分が確かに持ち得ていた光。弓を手にしたときにだって微かに感じていた希望だ。
「あっ」
ハッとして視線を上げる。その先には、的の端ぎりぎりに矢が突き刺さっていた。次いでシュゼットへ目を移すと、見る見るうちに満面の笑みへと変わっていく。
「的に当たりました!!」
「ただの偶然ですよ」
「偶然でも当たったのだから私の勝ちです」
ふふんと胸を張る少女がなんだかおかしくて、自然と頬が緩んだ。「勝ちってなにがですか」と思わず笑ってしまうとシュゼットは優しく目を細めた。こみ上げる温かさが心地よくて胸に手を当てると、少しだけ早い鼓動が伝わってくる。
「弓ってやっぱり難しいものなんですね」
「それは……そうですよ。実際の的は止まっていてくれませんから」
「私の言った通りではないですか」
「え?」
「ライガー様は素晴らしい腕前だって。誰にでも出来ることじゃないのでしょう?」
比較対象が違う、とか。状況や条件によっても異なってくる、とか。喉の奥まで出かかった反論は結局飲み込んで、そっと目を逸らすのみに留まった。シュゼットは問う。もう一度、同じことを。
「ライガー様にとって、弓は“逃げ”ですか」
「!」
ライガーが目を見張り、戸惑う。「そうだ」と即答できない自分に。
「私は武術のことも騎士のことも詳しく知りません。ライガー様が剣以外は無意味だと言うのならそうなのかもしれません。でも、戦場で価値があるのは剣を振るう者だけなのでしょうか。弓や銃に価値はありませんか」
「そんな訳ない。戦術においてどちらも重要な意味と役割があります。ただ僕は、兄に勝てないという理由で……弓に逃げた。比べられたくなかったから、剣を手放した」
俯く少年を横目に、少女はさも不思議そうに首を傾げる。
「単なる適材適所なのでは?」
「え……」
「剣ではなく弓の方がライガー様の性に合っていた。それだけのことのように思います」
「だ、だけど、騎士になるためには騎馬隊に入らなくてはいけなくて」
「馬から弓で射ればいいではないですか。それにライガー様は剣も扱えるのですから状況に応じて使い分けが出来ますわ」
一石二鳥ですね、とあっけからんと笑う姿に呆気に取られつつも、脳内を覆っていた霧が一気に晴れていくのを感じた。長い間淀んで滞っていた思考がクリアになり、灯った光が視界を照らしていく。
騎士とはルイズのように剣を手に騎馬で戦う存在だとずっと思い込んでいた。しかしそんな決まりはどこにもない。シュゼットの言ったように馬上から弓を自在に扱い、かつ剣も振るえればより強い騎士になれるのではないか。レオガルドとは全く別のルートから頂きを目指せるのではないか。
深く薄暗い色は消え去り、琥珀色の瞳が強い光を取り戻していくのを見届けたシュゼットはまた問う。
「ライガー様、弓はお好きですか」
「…………それほどは」
「嘘」
そっとライガーの手を取る。マメが幾度となく潰れ、固くなった掌。擦り傷や切り傷の痕。年齢にそぐわないそれらは彼の努力と鍛錬の証だ。
視線で本心を促せば少年は端正な眉を困ったように下げ、降参とばかりに軽く肩を竦めた。
「もしかしから相思相愛かもしれません」
小洒落た言い回しにくすりと笑みを零し、「よかったです」と心からの祝福を贈った。




