Latitude2(許容範囲)
私の愚かさが、私を滅ぼす。
晴名か。声が聞けてよかった。ほら、やっぱりメールだと話すのとは感じが変わるだろ。
いつもと違うって? そりゃ悪いな。悪いついでに、言い訳もこれで勘弁してくれ。
今は本当に忙しくて、心を落っことさないようにするだけで精一杯なんだ。
なあ晴名。お前は俺にとって、これ以上ないくらいの女だよ。
はいはい、叔父上。ただのお世辞だとしても、勝手に都合よく解釈しておくよ。
どうせ、私は良い女じゃないからね。それが残念だとは思わないけど。
パインアップルとはパインとアップルがミックスされた味である。是か否か。
答えは否。ただのパイナップルではないかとその人は憤っていた。それがきっかけで親しく言葉を交わすようになったのは、緑が濃くなる初夏だった。
部活動の休憩時間に、わざわざ校外の自動販売機まで足を延ばすのは、顧問の先生がうるさいからだという。
きゅうりになす、水を多く含んだ夏にとれる野菜。パパイヤにマンゴー、ねっとりと甘い南国原産の果物。緑茶。冷たいもの。これらは体を冷やすからなるべく避けるように。
ジャージのポケットに硬貨を1枚だけ忍ばせて、キャンペーン期間中の、ワンコインで手に入る缶ジュースを買う。くっとあおって一気に半分くらいのどに流し込み、残りは甘さを舌に沁みさせるようにちびちびと味わう。ぬるくならないうちに缶を干し、証拠隠滅とばかりに屑入れに放り込んで、現在時刻を私に問う。
腕時計を見る。時刻を告げる。慌てて駆け戻ることもあれば、のんびり歩いて戻ることもある。
会えて嬉しいと思った。別れ際は名残惜しいと思った。会えなくなるのが怖いと思った。
何より、嫌われるのが怖かった。
昔から叔父上とはよく遊ぶ。大事にされていたし、大事にされていると感じていた。
私は叔父上に恋をしていないし、恋をしたこともない。ただ、恋が、家族ではなく友人でもない男の人と親密な関係を作るものだというのなら、それはたやすいに違いない。
おもちゃの王冠を戴く女王に、道化て傅く。
敬愛ではなく親愛を向けて、わがままにも好々爺めかして目を細める。
——メールだと話すのとは感じが変わるだろ。
話し言葉に使われた「漢字」を、書き言葉に直すとき変えてみる。
——忙しくて、心を落っことさないようにするだけで。
りっしんべんの意味は、「心」。「忙」のそれを下に「落っこと」せば、「忘」。
——俺にとって、これ以上ないくらいの女だよ。
これ以上ない、その上がない、至上の。おんなへんに「至」で、「姪」。つくりを「良」に替えれば、「娘」。
忙しくても、私のためだけに言い訳を考えてくれるくらいには、叔父上は甘かった。
その城に、鏡はなかった。
女王様こそ至上。この私がそう申しております。鏡など必要ないでしょう。
その王冠は紛い物だ、と指弾する者はいない。誰も、王冠が金か否かを見定めることができなかったから。
金の密度はすでにわかっている。王冠の重さも秤に乗せればわかる。王冠の体積さえわかれば、それが金なのか混ざりもののある金属なのかわかる。鋳潰すなど恐れ多いこと、以ての外だ。無知の羊水の中で、女王は女王のままたゆたう。
その城の窓は隠されていた。夜の窓は、鏡のように凪いでしまうから。
その人は窓。そこに映る世界は触れることができなくて、だから惹きつけられる。
終わりは、銅の硬貨だった。
その人はいつものごとく硬貨を投入口に放り込んで、いつもの品のボタンを押した。出てこない。購入可能を示すランプが点いていないのに気付き慌てる。キャンペーンが終わって、その人が好む冷たくて甘いジュースは値を上げていた。
バスの運賃が十分にあることを知っていた私は、自分が出そうと申し出た。その人は甘えられないと拒む。次に会ったときに返してもらえればいいと私は軽く言ってから、その人が硬貨を余計に持ち歩くのを好まないのに思い当たる。次はいつかを指定しようとすれば遮られた。
わざわざ待ち合わせして会うのってなんか違う気がする、とか。約束なんかしないで偶然会える方が特別って感じがする、とか。たぶん、そんなところだ。
決定的な言葉は、忘れた。そういうことにした。
「もうひとりの自分」に出会ったとき、人は死ぬ。
ドッペルゲンゲル。ありえたはずの自分。ありえなかった自分。それは影。それは鏡像。
出会ってしまったら、それまでと同じようには生きられない。
その人は窓にして鏡。私の幼さを、弱さを、甘えを、否応なしに突きつける。
それと、目が合ったなら。
直視してしまったなら、人はその存在に耐えられない。
投入口に硬貨を1枚押し込み、その人がいつも頼む缶のジュースのボタンを勝手に押す。
返してもらわなくていいから、10円分味見させて。
昔話の中で、羽で機を織った鶴も、人の子を産んだ狐も。人ならざる身を、それを知られたことを厭って去ったのではない。
どうしてこのままではいられないのか、と残された男は問う。真実を知ったからといって何も変わりはしないのに、どうして。
『賢者の贈り物』で、自慢の美しい髪を売り払った妻は問う。
前と変わらず、私を好きでいてくれるでしょう? 髪がなくても、私は私だもの。
そんなにも、未来は信頼に足るものだろうか。現在の不安は未来に滲むような影を落とし、足場を浸食する。
問えるはずがない。私を嫌いになったりはしないでしょう、などと。
乞うことすらできなかった。私を嫌いにならないで。好きでいてなんて言わないから、嫌わないで。
真理の鋭い刃は、切り裂くものを選ばない。身を守る鎧を貫き、身を縛る枷を断つ。
王冠を水に沈めたときに、溢れた水の体積は、王冠のそれに等しゅうございます。
密度は、物質に固有のもの。その王冠は金にしては軽すぎた。
飲み口を唇に触れさせないように天を仰げば、陽射しが目を刺す。
ひどく、甘かった。寒い国の野菜は体を温め、熱い国の果物は体を冷やすという。
まだ気の早い夏の味がして、芯が凍えた。
トロピカルなフルーツがあしらわれた缶が、空気が揺らいで見えるような蒸し暑さの中ですぐ露を結ぶのが目に浮かぶ。その季節に、私はいない。
知らないでしょう、と詰る前に、知らないままでいてほしいと思った。
傷つけばいいのだ。いつか、その人を傷つけることで自分がもっと傷つくような相手を傷つけて、知ればいい。
傷つけられたからといって、律儀に傷つく必要なんてない。大丈夫、転んだけど、痛いけど、血は出ていない。だから、大丈夫。まだ歩ける。
仮に傷があったとして、血も流れず、痛みすら感じないほどに凍てつかせて。
女王は王冠を捨て、破れた窓から自らを城の外へと解き放つ。窓枠の硝子が肌を裂いた。
じりじりとバスを待つ。
外から隔絶された車内で、こぼれて唇に付いたらしい甘みを舐め取って、静かに思う。
私は、降りた。




