Latitude1(緯度)
ラチチュード
その名を問われて。
ウーティス、と名乗った男は存在を消した。
わからない、と示された動物は存在を得た。
どちらも、はじめから変わらないのに。
——悪いけど、誰だか思い出せない。
——うえむ——
——リン・パキュウって、何の役?
初めに遮られた自己紹介は、正式に名乗ったわけではないけれど、私の名前を知るには十分だ。
——……高西?
——そうだけど。
怪訝そうな肯定に、その逆接に、続きがあったとしたら。
——俺のこと、わかった?
——やだなあ。私が初対面の人相手にリンパ球について語り倒すような人間だと思う?
——まあいいか。
何がいいのか、もっと深く考えれば気付いただろうか。
——俺は良い人じゃないから。
私が「良い人」と評した、私のクラスメイトだった「高西」ではない。
——つまり高西は、弟と映画見に来てたの? ふたりだけで? 『淋しくて、巴里』を?
——そう。高校生の弟と。
「高校生の」弟とわざわざ断ったのは、高西順也に高校生でない弟もいるからだ。
——お兄さんって、ど——
水元彩乃は高西正希の兄が「『どこに』いるのか」ではなく「『どちらの』兄の名前を知りたいのか」尋ね返したのかもしれない。
右手を握手に差し出そうか迷って、そのわざとらしさが鼻につき、結局は遊具の縁取りで本体でもある曲面に手を沿わせる。
「つかぬことを訊くけど、高西順也はもしかして、鉄壁のアリバイの完全犯罪とか、そういうことを目論んでる?」
「全然」
「じゃあえーと、私に声を掛けたのって」
「ただのナンパ」
「え、そういうもの?」
「うん、そういうもの」
軟派というか、座礁と似たような意味の難破だと思うのだが。というかナンパって言葉が呆れるほど似合わんな。
高西順也との会話をナンパの常套句で置き換えてみる。
ねえ彼女、ひとりなの? 暇なら話さない? 実は会うのって今日が初めてじゃないんだよね。彼氏いないんでしょ。こっちも今フリー。今度会ったらお茶しない?
おお、ナンパかもしれない。だいぶ翻訳が必要だが。
「それで、私のクラスメイトだった高西って」
「弟」
「いやまあ、それはそうなんだろうけど、名前ってなんだっけ」
「大知。大きいに、知識の知」
「高西大知ね、うん、そうだったそうだった。どう、元気にしてる?」
「たぶん」
「なんで曖昧なの?」
まだ生きていれば、なんて言われたらどうしよう、とこわごわ確認する。
「泊り込みでスキーに行ってて、最近会ってない」
「そうなんだ」
息災で何よりである。
球の枠の横棒、緯度に右肘を引っ掛けて、体を斜めに倒す。腰が腕から一番遠くなって、角度の浅いくの字になる。
顔の位置が低くなり、掬い上げるように高西順也の表情をじっと見る。そこに浮かぶのは、きっと諦めと呼ぶのが近い感情だ。
どうして、と苛立つ。どうして、こんな顔をしたままでいたのか。どうして、こんな顔をさせたままで気付かなかったのか。
手は遊具から離して、両の足の裏をしっかり地面につける。自分の体重をどこにも預けられず、すべて引き受けようとするとその拠り処の無さに不安になる。
ちゃんとしなさい、と自分に命じる。
まっすぐに立って。足は揃える。ふらふらしない。お尻にえくぼ。背筋は伸ばす。胸は張り過ぎないで、鳩じゃないんだから。手は下ろして。指も、ぴんと伸ばせとは言わないからグーパーしない。
謝るときも、叱られるときも、叱るときも。それが礼儀だ。
「ごめんね、高西順也。間違えたし、気付かなかったし、それを認めないでごまかした。だけどごめん、怒るから」
自分のことを棚に上げてどの口がそれを言う、と冷笑とともに呆れられたら返す言葉もない。
あなたにそんなことを言う資格はない、と軽蔑とともに詰られればその通りだと認めるしかない。
自分が上等な人間でないと嫌というほど知りながら、呆れられても、詰られても、叱る。この居心地の悪さが大人になるということならば、叱られる立場の方がずっと楽だった。
でもやめない。子供の権利は、大人の義務だ。
「昔のクラスメイトのよしみで言うけど、高西大知に失礼でしょう。ナンパくらい自分の責任で正々堂々とやりなさい。高西大知を利用していいのは、高西大知だけだから」
高西大知の名前も先ほど聞くまで思い出せなかった薄情なクラスメイトが、偉そうにこんな説教を垂れているというのは皮肉以外の何物でもない。というか正々堂々としたナンパってなんだ、平家物語の武士じゃあるまいしいちいち名乗りを上げるか。
心の中で自分を痛めつけないとやっていられない状況だ。
「今日知り合ったばっかりでなんだけど、高西順也に失礼でしょう。他人に勘違いされたまま、まあいいかなんて説明を放りださないでよ。高西順也にはその価値がある」
よし言えた。というか高西順也の存在を初めに否定して勘違いし続けた張本人の私が、空々しくもよく言った。もうこのまま耳を塞いで逃げ帰りたいが、そういうわけにもいかない。
「あと、私に失礼でしょう。私は高西大知に会えなくなったら困るし、高西順也に会えなくなっても困るの」
意地で表情を固めたまま乗り切って、大きく息をつく。
「謝ってもいい?」
「ご自由に。相手が謝罪を許してくれればね」
「上村さんは」
私には、拒めない。仮初にでも体裁を繕わないと叱れなかったから、高西順也に謝罪することを許されるかどうか問う前に駆け足で押し付けた。
「もうちょっと待って。高西順也に訊きたいことがある」
緯度と経度がわかれば地球上の一点が示されて、その地点が指定されれば緯度も経度も求め出せる。
過去の座標を時間と場所とするならば、そのふたつが噛み合うところに私はいた。
「基本ね、高校は自転車通学だったんだよ。というか今もそうなんだけどね。雨の日だけバスで、あと冬もね、落ち葉が積もったり道路が凍ったりして危ないから、バス通学」
きっかけは、水元彩乃の隣で見た公園の地面だった。
「綿毛を飛ばすのってさ、晴れた日の楽しみなんだよね。ほら、湿ってるとよくないでしょ。だから、高西順也が私を見たのは雨の日じゃない。冬を越す草は花も種もつけないから、冬の間でもない。だからそのバス停って、通学の途中じゃないってわかったんだよね」
それから、私はこの人をどう呼べばいいのかわからなくなって、呼ぶのを避けた。
「今はないけど、高西順也が働いてるレストランの裏にバス停があったんだよ。草ぼうぼうの月極駐車場の前で、すぐそばに自動販売機がある、屋根もベンチもない標識だけのバス停。私が待ってたのはバスだけじゃなかったけどね」
通学途中では寄る機会のないバス停に行ったのは、休みの日だった。
——高校生ってなんとなく、制服着てなくてもわかっちゃわない?
——上村も、3年前は高校生だった。
3年前。綿毛の季節。バス停。
ねえ、高西順也は、といつの間にか祈るように組まれた指を解いて、問う。
「私のこと、わかった?」
「わかったよ」
「そっか」
観念して、力を抜く。
バッグからレモネードを取り出して、喉に流し込む。いつの間にか人肌程度にぬるまって、その分味が濃く感じられる。
「大知と同じ学年とわかって、驚いた」
「そんなに若く見えた?」
「仮にも受験生が、あんなに暇そうにしてるとは思わなかった」
ペンペン草をペンペンいわせて、オジギソウをお辞儀させて、タンポポの綿毛を吹き飛ばして。
「待ち伏せしてたの。まあ、待ち合わせをするような関係にはならなかったからね。待ってる間、暇で暇でしょうがなくてね。何回か会って、何回目かに会わなくなった」
「暇つぶしもいろいろある。本を読むとか、音楽を聴くとか、英単語を覚えるとか、知恵の輪をするとか」
「はいはい、そうでしょうとも。暇そうで悪かったね」
「だから、ずっと渡そうと思ってた」
半分は透明、もう半分は青く半透明のプラスチックの球形の容器だ。赤道のように中心を走る色の境界で、ぱかりと割る。
「ちえのわ?」
ひらがなかい。




