Lure(疑似餌)
ルアー
「彩乃ちゃんさ、あっち向いてみてくれる?」
思い立つとちょうどよく目に入るものがあり、水元綾乃を促す。
「はい」
がちりと金属音でも立てるように目が合う。視線を上げることには成功したが、方向が違う。
「……あの、こっちじゃなくて、あっち。指さしてる方」
「はい」
まっすぐな良いお返事をして、まっすぐにこちらを見つめてくる。
「もしかしてなんだけど、実は今、私の顔に気になることあったり、私の後ろに誰かいたりする?」
「髪はちょっと乱れてますけど、あとは特に」
「うわ、走ったからね。今直す。よし直した。手櫛だけど直ったことにする。さあ、あっち向こうか」
「はい」
「だからなんでこっち……」
にらめっこか。チキンレースか。いや、違うな。探るような視線はどこか不安げ、というより不信そうで、原因に思い当たる。
「別にね、どこかに注意を逸らしてるうちに彩乃ちゃんに何かするとかそういうことはないから。なんならホールドアップとかしちゃってもいいから、ね? 見るだけ見るだけ」
「……はい」
ここまで言ってようやく、しぶしぶながらも従ってくれた。やっぱり第一印象って大事なんだな、といささか反省する。
「例えばね、あの電信柱」
「はあ」
「あそこに何か見えない?」
水元彩乃は電信柱と私を見比べるようにせわしなく視線を左右させる。だから私の方は見ても無駄だというのに。
「何かってなんですか」
「何かというか、誰か」
「いきなり言われても」
「まあね、明るいうちは見づらいといったらそうなんだけど」
「暗いければ見えるものなんですか」
「見える見える。こう、車のライトで一瞬浮かび上がるんだよね」
「そういうの信じてないんですけど」
「いやそんな、信じる信じないって幽霊じゃあるまいし」
え、と水元彩乃が意味をなさない音をぽろりとこぼし、え、とその音の意味を掴み損ねて同じように返す。
「違うんですか?」
「いやあ、この寒いのに幽霊なんて見てもしょうがないでしょ」
幽霊の正体見たり枯れ尾花。
尾花はススキ、秋の七草のひとつだから、人が幽霊を見るのは夏ばかりではない。お化け屋敷だ怪談だと夏の風物詩扱いされているが、確かに涼む必要もないほどに底冷えする季節に出くわして嬉しいものではないだろう。
「じゃあ、おばけですか……?」
「違う違う。よし、じゃあ一緒に見てみようか。明るいからわかりにくいけど、電信柱に蛍光テープ貼ってあるでしょ。あれのこと」
「あの白っぽいテープですか?」
「そうそう。縦だったり横だったり斜めだったり、ただライトを反射させるだけにしてはやけに不規則でしょ」
「確かに、そうかもしれないですけど」
「まあね、ちょっとコツがあるんだよ。答え合わせをしてみると、一番上のがヘルメット、タスキみたいなラインに、下にあるのがベルト。で、ベルトの下に斜めにある赤い線が警棒」
「わ、ほんとだ……」
こういうので気を引こうとするのっていかにもナンパの手口みたいだな、と自分の言動を白々しく思わなくもない。窪田さんがやってくれたように品よく、種も仕掛けもない手品を、手頃な空間から取り出すがごとく軽やかにはいかないものだ。
『マナー遵守、お天道様が見ています』。
お天道様が隠れても、電信柱が見ています。
見られている。見られていると感じる。見られたくないと思う。その感覚が見られたくない行動を起こさないための重しとなるならば、儲けものといったところだろう。
人は枯れ尾花に幽霊を見て、電信柱に警察官を見せる。この仕掛けに気付くと感心するか呆れるか、とにかく悪事を仕出かそうという意気込みが少し萎えるのは確かだ。
「実はこういうのって、その気になると結構いろいろ見つかるんだよね。一旦知っちゃうともう見ないふりはできないけど、まあ見えるのも悪くないと思うよ」
冬の空気は手袋なしの指先に沁み入ってくる。唇に寄せて息を吹きかければ、湿った温もりがじんわりと広がって、けれどすぐに消えていく。
知ってしまったら、私なら触れずにはいられないだろう。
もう後戻りができないのなら、せめて、その結末も悪くないと思えるものであればいい。
「晴名さんは、もうここにいなくていいです」
不意にきっぱりと告げられて、え、なんで、と取り繕えずにうろたえる。
「正希もいつ来るかわからないし」
「たぶんそのうち、いや、もうすぐだと思うよ。もしかして彩乃ちゃん、寒かった? ごめんね、ひとりだけ上着ちゃって。何かあったかいの買ってこようか?」
フェンス越しに見える自動販売機を示すと、慌てたように首を振られた。
「そうじゃないです。私はいいので、その、デートの途中だったら戻ってください」
「デート? ……私が?」
「聞こえたんです。正希のお兄さんと映画観てたんじゃないんですか」
——お兄ちゃんに、次のデートには弟連れてくるなって伝えといて。
高西正希を救い出すための言葉には、知らずに自分も助けられていたらしい。情けは人のためならずとはよく言ったものだ。水元彩乃の態度がやけに冷静だと思ったらそういうわけか。
加えて『淋しくて、巴里』は、カップルが観客のほとんどを占めるロマンス映画だ。ひとりで観ていたとは普通思わないだろう。
「ああ、あれね。いいのいいの。どうせすぐ会うし」
肯定も否定もせず、やっぱりなんか飲もうか、私も寒いしね、とバッグから財布を取り出す私には取り合わず、水元彩乃は問いを重ねる。
「でも、お兄さんって、ど——」
声は唐突に断ち切れて、私の方に向き直る。
ドはドーナツのド、と無邪気に言ってのける心根を一夜にして永遠に失ってしまった身としては、「お兄さん」と組み合わされたドで始まる単語には心胆を寒からしめるものがある。
「え、なに、まだ髪変だった?」
「上村」
どこに、と問おうとしていたなら、確かにその必要はなくなっただろう。
私が今日映画館のロビーで出会った相手が、そこにいた。
「やあ。30分ぶりくらいだね。というか今誰かのせいでものすごく取り込んでるんだけど」
「上村がお手つきしたのが悪い」
「なんで知ってるの?」
この問いを発するのも今日何度目だろう。ふと思ったが実はこうしていながら完全犯罪など企てているのではないか。
「正希に聞いた」
「ああ、よかった、会えたんだ。いやね、高西正希をあの場に放置するのも悪いとは思ったんだけど、まあ任せとけばいいか、ということで」
「お手つき、って……?」
水元彩乃は眉根を寄せる。たった今気付いたが、「お手つき」にはそこはかとなく後ろ暗い響きがある。
「いや、あの、お手つきはお手つきでも『殿様のお手がついた』のお手つきじゃなくて、カルタのお手つきの方ね」
何の名残か殿様がまたご登場である。さっさと私の思考から去りたまえ、殿よ。
「カルタですか?」
「まあとにかく、彼と高西正希を間違えたってだけ」
彼って誰だ、などと胡乱な目を向けられては面倒なので、ぽんと腕を叩いて君だよ君と知らせておく。ディスイズヒム。
「どうして間違えたんですか? 似てるっていっても別人だし、普通は間違えないんじゃないですか」
私は普通じゃないと言いたいのか。普通じゃないのは目の前にいる私じゃない誰かだと思うぞ。あ、そういえばジャンパー自分の着てるな。
「そりゃあね、初対面ならうっかり間違えもするでしょ」
でも、と水元彩乃は不服そうである。
「あ、ほら彩乃ちゃん、あっち見て。高西正希が来たよ」
「そういうのに騙されないですから」
「えー、ほんとなのに」
そう言っているそばから、彩乃、と息を弾ませて呼ぶ声に、肩を跳ねさせる。
私はそうほいほい人を騙したりはしないのである。必要に迫られない限りにおいては。
どうして高西正希はこんなに遅くなってしかも妙に運動量が多そうなのか、水元彩乃の友人と思しき女の子たちはどこに行ったのか、知りたいことはいろいろあるがこの場で質すことでもないだろう。
「なんか飲み物買おうと思ってたんだけど、どうする?」
「奢る」
「ありがとう。じゃなくて、飲むか飲まないかが訊きたかったんだけど……あ、自販機あっちね」
とりあえず、財布はしまうことにした。




