Loose2(緩む)
コートを手早く羽織って、人心地つく。走って火照った体が冷めるのは早い。
コートのポケットから手袋を取り出して、代わりにイヤリングを奥深く落とし込む。大きくて深いポケットの包容力にはつい甘えてしまう。
冬の公園はどんなに新しくても寂れて見える。目の詰んだ空気が覆いかぶさってくるようで、どこかへ向かう途中に立ち入ったなら足早に去ろうとするだろう場所である。並ぶ遊具のにぎやかな色合いも、その下の金属の冷たさが強調されるようだ。
木の葉は落ち切って枝だけが鋭角をなす。木の周りの黒く湿った土はほこりと柔らかそうで、朝には霜柱に持ち上げられたのだろうが、それも今は溶けている。
沈黙の重さを量るように、水元彩乃はそっと言葉を落とす。
「いつまでこうしてればいいんですか」
木の葉を水面に浮かんでいるうちに拾い上げるように、質問を掬いあげる。水底に沈んでしまわぬように素早く、飛沫を散らさないように丁寧に。
「うーん、高西正希が来るまで? 寒いから早く来るといいね」
「逃げたのにこうやって待ってるの、間抜けじゃないですか」
「えー、逃げた彼女をつかまえられない方が間抜けじゃない?」
彼女じゃないです、とすかさず差し挟む水元彩乃に、一般論です、と返す。
「正希に会いたくないんですけど、どうすればいいですか」
「会って直接、あんたなんかに会いたくないって言っちゃえば?」
「それ矛盾してませんか」
「そっか。じゃあもう一回逃げちゃえ」
「この服、走りにくいんですけど」
「こっちだって走りにくかったよ」
手加減しながら投げられる、固くてほんの少しだけ尖った言葉は、くすぐったいだけで痛くはない。ぽんぽんと同じテンポで打ち返せば、質問の形を取らない会話も混じるようになる。
しばらく互いに一言ずつの会話が続いてから、一拍だけ間が空いて水元彩乃は思い切ったように口を開いた。
「『淋しくて、巴里』っていう映画があるんですけど」
「知ってる知ってる。今日観たもん」
「なんであんな映画観なきゃいけなかったのか、訳わからないです」
「え、彩乃ちゃんは、あ、勝手に呼んじゃったけどいい?」
なれなれしく呼ばないでください、と撥ねつけられる覚悟で許しを求めてみる。
なれなれしいのは重々承知だが、性質の悪い慇懃さよりはまし文句がつけられるだけましだろう。
実際より下の年齢にみられがちな見た目の私が、この親しげな口調で水元さん、彩乃さん、などと呼ぶと、そこだけ浮き上がって嫌味たらしくなるのである。
「あ、はい、その、晴名さん……じゃない方がいいですよね」
早口で言い直そうとする水元彩乃に、ずるいなあ、と思う。
自分には決して手に入らない類のかわいらしさと、喜んで手放したはずの世慣れない若さを見せつけられて、悔しいのについ優しくしたくなってしまう。ついでに、高西正希には優しくしたくなくなる。
「うん、晴名でいいよ。こっちだけ上村さんっていうのもなんだし。で、彩乃ちゃんは、ああいう映画好きじゃないの?」
「別に、好きでも嫌いでもないです」
「なるほど、そうなのか。いやまあ、私も気まぐれに入ってみただけだから人のこと言えないけど、なかなかロマンチックな映画だよね。カップル多かったし」
「そんな映画、なんで付き合ってもいない相手とふたりきりで観なきゃいけないんですか」
「え、ほんとに付き合ってないんだ」
高西正希は「彼女」の機嫌を損ねるという次元にすら達していなかったらしい。
「ずっとそう言ってるじゃないですか」
「ごめんごめん。でもさ、それって気まずくない?」
「気まずくてやってられないですし、それなのに隣はいつの間にか寝てるとか、ほんっと、いらつきます」
「そりゃまあ、そうだろうね」
もう私、ばかみたい、とこぼれた呟きは聞こえないふりをして、彩乃ちゃんは、と問う。
「ラブでもライクでもそれ以外でも、高西正希のことは好き?」
ラブかライクか、恋か親しみか、好きか嫌いか。
無遠慮なまでに無邪気に、二者択一を迫ることはしないし、もう私にはできない。辞書をめくれば親愛以上のlikeや情欲を孕まないloveがあるのも、自分にとってもっとふさわしい恋の定義があるのも知っている。
「それ以外ってなんですか」
「なんだろうね」
水元彩乃は淡く笑う。
「余計気まずくなるのがわかってて逃げるくらいには、好きなんでしょうね」
自分の「好き」を認識し、「それ以外の好き」で濁さず言葉にできる水元彩乃は、高校時代の私よりずっと大人だ。
私にとって、許せないのが恋だと気付いたのは、許せてしまうなら恋ではないと思い知ったときだった。
会いたいと欲してくれないのが許せない。名残惜しいと引き留めてくれないのが許せない。一緒にいられて嬉しいと、一緒にいられなくなるのがこわいと、私と同じくらいに感じてくれないのが許せない。
何よりもまず、私の気持ちを知らないままで生きていることが許せない。
許せない、という激情の手綱を取る術を覚えれば、葛藤の閾値を超えて想いを告げるだけの動力を得られるし、素直に甘えたりかわいらしく嫉妬したりもできるようになる。
惚れたら負けだ、と自尊心は忠告する。
はいはい、でもそれどころじゃないから、とその忠告を受け流して開き直らないことには愛の告白などできない。少なくとも私には、できなかった。
「でもやっぱり、わからないです」
水元彩乃は爪先で砂利を蹴る。
水はけがよすぎる白っぽい砂の上にも、ぽつぽつと緑が見つかる。草は寒さをやり過ごすように丈を低くしてロゼットを作り、花もなければ綿毛もない。
触れるものすべてが、自分の熱を奪う。こんな季節に誰かを待つのは、きっと淋しい。
地面に落としたままの視線を上げてほしいと、たまらなく思った。




