Loose1(解き放つ)
ルース
「かーのじょっ!」
自分で呼んでおいてなんだが軽薄この上ないな。
ほかに良い呼び方はないものか。
「おねえさん」はあれだな。「彼女」と負けず劣らずナンパっぽいな。自分より年上のしかも女に使われると腹が立つ。却下。
「娘さん」は時代がかっているし、今はどちらかというと「娘さんを僕にください」という「(あなたの)娘」の意味が主流なのではないだろうか。
思い切りアスファルトを蹴る。映画館や小洒落た店の並ぶ道を一本曲がれば、飲み屋の並ぶ路地になる。昼間から開いている店はないようで、心おきなく声を張り上げられる。
「そこの、かのじょっ!」
無反応だ。そんなものか。せめて後ろを振り返るなどしたらいかがだろうか。まあ私なら目を会わせたくないから無視するが。
そこここにある路上駐車の車にぶつからないように、道の真ん中を直線で走っている。
あんまり走りたくないんだけどな。ブーツだし、スカートだんだん捲れてくるし、ニットだから伸びそうだし。というかアヤノさんもあの紙袋持ってよく走るな。
「彼女ってば!」
「違います!」
違うって何がだ。人違いだと言うなら逃げなければいいのに、と考えて思い当たる。否定されたのは、恋人を意味する一般名詞の「彼女」の方ではないのか、と。大丈夫か高西正希、早晩ふられると思っていたがすでにふられてるぞ。
しかしそれならなんて呼べばいいんだ。
「おじょーさんっ!」
とりあえず懲りずに呼び掛け続ける。というよりも足で追いつく自信がなくなってきたので、声で捕まえようという魂胆である。さすが高校生、現役には負ける。私も昔は遅刻ぎりぎりに階段を駆け上がったものだ。
膝の半ばまでの長いブーツに高めのヒールなので、長い距離を走るのはつらい。
日が照っている。朝に降りた霜は溶けて、土に浸み損ねたものは空気に混じっていった。日向の落ち葉は踏めばすぐ砕けそうなほど乾いている。
だから転ぶ条件は少ないはず、と自分に言い聞かせながら、枯葉がほろほろと舞う地面を蹴る。
イヤリングが揺れる。外れそうだ。ピアス穴を空けようかな、と思うのはこんなときである。喉元を過ぎればすぐ忘れるが。
路地を通り過ぎて標的は公園に飛び込む。
障害物となる遊具の間をすいすい縫っていく背中を金網のフェンス越しに見るに、距離はそれほどでもないが私が追いつくまでに反対側の門から出てしまうだろう。道をぐるりと回った方が勝算は高いだろうが、見失ったら元も子もない。
耳元の感触が煩わしくて、引きちぎるように右手で外す。ああ、もう。
「お嬢さん、お待ちなさい!」
どこぞの童謡の歌詞みたいになってしまったじゃないか。
手にイヤリングを持っているのもなかなかの演出だ。まあ自分のものだが。
しかしあの歌に出てくるくまさんも、何も言わずに追いかければお嬢さんは逃げるに決まっている。せっかく人語を操ることができるのだから、切り株に座っていたって小さな親切のひとつくらいできようものを。
ああ。その手があった。
一か八か。足を止めて一呼吸置き、申し訳程度に左右を見渡す。人影はない。
「お嬢さん、落とし物っ!」
手元の紙袋を掲げて、振り返れと念じる。
言葉が通じるのは、強みだ。こっちを見てもらえれば、どうにかできる。
「そんな、嘘……!え、うそ、そんな……」
掛かった。映画館の裏の雑貨屋は、ランジェリーショップとしての裏の顔ももつが、レジはひとつで紙袋も一種類だ。
今も誰かの歌の中で、森で楽しく踊っているだろうくまさんに謝罪する。ただ言い訳を許してもらえるなら、「おくさんおくさん両手をついて」と縄跳び歌を歌っていたどこぞの小学生の方がよほどひどい冒涜だと思う。
大慌てで向かってくるアヤノさんの姿にこちらが逃げ出したくなるが、そうはいかない。
「返してください!」
「返すというか、これ、私のだから。あ、気になるなら中身開けて確かめてね。レッグウォーマーしか買ってないから見られて困らないし」
私も手段を選ばないよなあ、と悲しくなってくる。レッグウォーマーを使い始めたら、大人の仲間入りであるようだ。
自らの紙袋のなかに目当てのものが見つかったらしいアヤノさんが、どうして、溜息とともにこぼすのを、何に対しての問いなのかは勝手に推測する。
「まあ、このお店のこと知ってたらちょっとは焦るかなと思って。ほら、高校だと合宿とか修学旅行とかの前ってみんなで冷やかしに行ったりしない?」
本筋以外を詳しく語っても糸が絡まるだけなので、さらりと流すことにした。
「上村晴名です。晴れた日の名前でハルナ。高西正希のお兄ちゃんの同級生で、高西正希とは今日初めて会ったんだよ」
相手の名前を訊くときはまず自分から名乗るのが礼儀だという。
実際には名乗ることなくいきなり名前を尋ねてくるような人も、そんな人相手にまずお前が名乗れとたしなめるような度胸のある人にもお目にかかったことはないけれど。
そういうことになっているから、そういうふうにしておく。
それだけで、物事は意外とうまく滑り出すものだ。
「水元彩乃です。火の元の元、水彩絵具の彩」
「あ、ウエムラは上下の上の方ね。市民プラザに勤めてます。まああれだね、まずは世間話っていう雰囲気じゃないからいきなり訊くけど」
水元彩乃と私の間には、共通の話題が高西正希と雑貨屋兼ランジェリーショップと『淋しくて、巴里』くらいしか思い当たらないのでどうしようもない。
「高西正希じゃなくて私に、何か訊きたいことある?」
「帰っていいですか」
「だめです」
はい、次いこう、次、とさくさく促す。
「話さなくていいですか」
「いいよー。私が勝手にしゃべるけどそれでいいなら」
「今話しかけないでもらっていいですか」
「うん、いいよ。隣にいさせてもらえれば嬉しいな、と思います」
触れてもいないのに弾かれて、そのたびに私より水元彩乃の方が痛そうに見えてしまう。
くしん、と沈黙を破るように出かかったくしゃみを押し潰す。
くしゃみをすると魂が飛び出し、抜け殻になった肉体には悪魔が入り込むという。そんなことにならないよう、お守りくださいますように、とおまじないを唱える。それがブレスユー、というあれだ。
悪魔に乗っ取られるどうこうはともかく、警戒が解けない水元彩乃を大きな音で驚かせたくはない。
小さな、といっても、遊具が立て込んでいるせいでそう見えるのかもしれない公園だ。
ぶらんこに滑り台、名は知らないが球の枠組みの回る遊具、凹凸がついた小山には反対側からは縄が垂れている。フェンスに沿って、鉄棒は背の低いものから順に並んでいる。渡された鉄棒自体には錆が浮いているので、その支柱に背をもたせかけている。
背中から冷えが伝わってきて、くちっ、くしん、と続けざまにくしゃみが出る。
「気になるので上に何か着てもらっていいですか」
声を出さずに、はい、着ます、と答えた。




