Lapse4(堕落)
肩同士が触れ、背中に腕が回されて上半身が押しつけられる。体温を感じる間もなくあっさりと解き放たれた。
「今の、なに」
ハグというような軽やかな親しみが込められているわけではなく、かといって情熱的でもなく、あえていうなら巻き寿司だ。かんぴょうと卵焼きとさくらでんぶときゅうりを海苔とご飯の上にきっちり並べあとの、巻き簀でくるりと巻いて、最後にきゅっと形を整える感じの抱きしめ方である。
高西の手際が非常によろしかったためか、驚きも抵抗も戸惑いも、それこそ太巻きの具のように納まるところに納まって外に出てこない。我ながら妙に落ち着いた声である。
「良い機会だから、上村の印象に残る努力をしてみた」
「……印象って」
印象ってあの、インド象と書くインショウか。
「印象すなわち印度象」というのは、「左ヒラメの右カレイ」、「左脾臓の右肝臓」と並ぶディープ・インパクトな語呂合わせであり、しかもヒラメや脾臓より使う機会は確実に多い。
これさえ覚えておけば、インショウって「印象」って書くんだったかな、それとも「印像」だっけな、などという悩みとはおさらばだ。外国では象は記憶力の良い動物として知られているのも心憎い偶然である。
とにかく、印象と言うものがインパクトに左右されるものなのだとしたら、高西の戦略は間違っていない。
これから高西のことをちらりとでも思い出すたびにほぼ確実にこの場面が脳裏を掠めるようになり、高西ってわからん人だな、何度思い出してもわけわからんな、いつかわかるようになるかと思ったが相変わらずわからんな、と首を捻ることになるだろう。
それが狙いならともかくとして。
「それ、逆効果だと思う」
「そう?」
「うん。むしろ高校時代の高西の印象が吹き飛びそうになったし」
このままでは高西の印象は「今の高西」で固定されしまうことになるではないか。
苦情ついでに決して忘れているわけではないと主張してもいる。目の前の高西のせいでだいぶ影が薄くなっているにしろ、高校生の高西の記憶も確かにあるのだ。
「覚えてるの?」
もちろん、ときっぱり告げる。
「高西は良い人だった」
そうなの、とどこか他人事のような高西に、そうなの、と力強く請け合う。
「英語の授業で、『賢者の贈り物』読んだことあったよね」
さあ、と高西は首をひねる。
題名でぴんとこない人でも、さわりを聞けばあの話かと膝を打つ、有名な短編だ。ちなみにサゲを聞いてあの話かとなる代表格は、『猿の手』であろう。
クリスマス、貧しい若夫婦は互いへのプレゼントを買うだけの蓄えがない。
妻は決心を固めると自慢の長い髪を売り、夫がもつ立派な懐中時計に付けるための鎖を買う。だが帰ってきた夫にプレゼントを渡しても、素直に喜びを表してはくれない。
「髪を短くしたって、私を好きでいてくれるでしょう?」と不安げに問う妻に夫は理由を告げる。
「その鎖をつけるべき時計は質に入れてしまったんだ。長く美しい髪を飾る櫛を君に送りたかったから」。
高校生とはいえ大して英語が読めるわけではなかったので、先生が用意したのはただでさえ短い原文をリライトしてダイジェストにしたという、ほぼ原形を留めないシロモノである。
「読み終わったあと、誰かが『妻がもう一度髪売れば万事解決』みたいな感想言ったら、高西は『夫も髪を売ればもっと早く解決する』って」
「ふうん。それで?」
気のない相槌だ。
「だから、高西って良い人だなあ、と思った」
善良とか親切とか誠実とか、そんなふうにくくることはできないけれど、有無を言わせず良い人だと実感させるひとことだった。
「そう。で?」
「高西ってすごく良い人だなあ、と」
「うん。で?」
「高西ってものすごく良い人だなあ、と」
グッド、ベター、ベスト。
「ものすごく良い人」の上は何と表現すればいいんだろう、「すさまじく良い人」だろうか、どうも違う気がする、と考え始めたところでまたしても高西の抱擁に思考が絡め取られた。今回はもう少しきつめである。
「忘れていい」
「なんでよ」
せっかく思い出したのに、と両手を突っ張って体を離してから軽く睨む。
「俺は良い人じゃないから」
「そうなの?」
この3年とちょっとの間に高西に何が起こったんだ、と瞳の奥に変化の名残りを見つけようと試みるが、軽く覗き込んで、あっさり挫折する。
1枚の絵では、まちがいさがしはできるはずもない。
「まちがいさがしで必ず間違っていることはなんでしょう」というのもまた、叔父上のなぞなぞだ。
答えは、名前。
探すのは「間違い」でなく「違い」なのだから、この遊びの名が「まちがいさがし」である限り、必ず間違っていることになるわけだ。付け加えると、だから「間違い」の数は問題文に示されたものよりもいつもひとつ多くなる。
「間違った絵」において、「正しい絵」の赤い花が青く、口髭が顎髭に、虎猫が三毛猫になっていたとして、それは単に相対的な違いであって間違いではない。
かといって絶対的な間違いならすっきりするかといえばそうでもなく、影がない人間は幽霊かもしれないし夏至だからかもしれない。イラストレーターが写実性を追求しなかっただけかもしれない。尾が2本の猫は猫又かもしれないし、12月にアロハシャツを着たサンタクロースは南半球に出張中かもしれないし、鏡に映るよく似た別人は窓の向こうの他人かもしれない。
そこまで言いながらまちがいさがしにいそいそと取り組む叔父上こそが間違いの大元なのでは、と感じた私はおそらく間違っていない。
昔と今、どちらの高西が「正しい」のかはわからないけれど、それでもいつだって、目の前にいる人が基準になる。変化が緩やかなら気付かぬままに、急激ならば驚きとともに、新たな色を重ねていく。
当時の淡い印象をシンプルな抱擁で塗りつぶされて、目に入るのは、何なのだろう。
見極めることはできなくて、けれど降参を告げる代わりに問う。
「高西は、どう? 私の高校生のときのこと何か覚えてる?」
大してというかまったく親しくなかった、3年前に同じ教室で1年間過ごしたというだけのクラスメイトについて語るという苦行を強いてみる。
苦労したまえ、高西よ。そして思い出したそばから忘れろと言われた私の身にもなればいいのだ。
強気に出てから、しまった、と思う。
こういうのは性に合わない。
まるで、自分が主人公の物語を寝る前にせがむような。
たとえ語られるためだけに創られて牙を抜かれた世界であっても、そのなかで動き回るもうひとりの自分は私の平穏を破る。
「私」なのに、私が動くように動かず、私が選ぶように選ばない。
それは過去の自分であっても同様だ。時間という半透明の膜に隔てられて、過去に伸ばされた刃が現在を傷つけることがないように、現在の後悔も過去に警告めいた傷ひとつ残せない。
どうしてそんなばかなことをするの。どうしてわからないの。
あなたは「私」のくせに、何も知らない。
いやなければいいんだよ、というかまあ覚えてないよね、普通そうだよね、とそろそろと退却を申し入れる前に、高西は口を開いた。
「ペンペン草」
インド象もびっくりの印象だ。




