「君が思うより世界は広いんだ」
この世は、金持ちと貧乏人に分かれる。
どうやら神か何かが、それを決めるらしい。
……馬鹿馬鹿しい。
そんなこと言ったら、俺みたいな貧乏人は最初から“負け犬”になるじゃないか。
そんなの、俺はごめんだ。
しかし、世の中は想像以上に腐っている。
最近だって、上手いことコネで別の仕事に就けたと思ったら、昨今のリストラで失業した。
次は俺もどうなるか分からない。
また失業したら、いっそのこと社会に反抗してみるかな。
……冗談だ。
『……? ……あ』
『やば』
『遅刻だ』
―――
俺は急いで走り出した。
今日は銀河……なんとやらの建国記念日らしい。
たしか、そうだったはずだ。
だから普段なら入れないようなバーにも、俺みたいな若い奴が入れるらしい。
もちろん、酒は飲めない。
政府は、都市部に根付いた固有宗教の影響か何かで、未成年の飲酒を厳しく禁じている。
見つかった時点で即、刑務所行きだ。
勿論、俺は飲んでない。
神に誓って、本当だ。
……本当だからな?
それより……クソッ!
滑った!
『チッ、擦りむいた』
全く、災難ばかりだ、最近は。
しかし俺は、後になって気づいた。
この時は、まだマシだったのだと。
『……♪……d、~♪……b♪』
『……は?』
『……do……♪』
俺は一瞬、目の前にいるそいつを認識できなかった。
いや、脳がそれを拒否したのだと言ったほうが正しいだろう。
とにかく、おぞましいものが俺に向かっていることだけは分かった。
『♪……ン?……フフ……』
それは、人間のものとはとても思えない声と見た目をしていた。
ガラガラで、ボソボソとした声。
しかし、その中には芯のような大きな音が混じっていて、ひどく不均一な不協和音になっている。
いや、待て。
ヤバい、ヤバい、ヤバい。
俺は、はっきり言ってこの時かなり焦った。
恥ずかしい話だが……少しだけ漏らしていたと思う。
ただ、どうにかしてこいつを避けられないか、それだけが頭の中を駆け巡っていた。
気づけば俺は、財布から1000モナドくらい――日本円で一万円ほど――を辺りに放り投げ、必死に逃げていた。
多分、そいつは金に夢中になったんだと思う。
しばらくして後ろを振り返ってみても、追ってくる気配はない。
幸運なことに、撒けたらしい。
『ガタンッ』
『ハァ、はぁ……ゴホッ』
『あ、やっと来やがった! おい、お前ら! ケーンの奴が来たぞ!』
『ん? お! “踊り狂いケーン”じゃねぇか! 待ちくたびれたぞ』
『そんなことより! さっきヤバい奴に――』
『ヤバい奴? 襲われたのか?』
『あ、ああ! しかも、めっちゃ……』
怖いという言葉が出てこなかった。
流石に、それを言うのは俺のプライドが許さない。
『と、とにかく、ヤバかった……』
『そ、そうか……』
ジョージは、それ以上何も聞かずに受け流してくれた。
すると、
『おい! ケーン! さっき、スゲェ美人がいた!! しかも、スッゲェいい服だ! 司祭か何かなんじゃないか!?』
相変わらずうるさい声のジョンがそう言った。
スミスのほうだ。
デイビスじゃない。
『そんなことより!――』
『そんなことじゃねぇ!! 見てみろよ!!!』
仕方なく、ジョンが指したほうを見てみた。
……衝撃の光景だった。
今まで見てきた中で一番……いや、そんな言葉では片付けきれないだろう。
彼女は、この暗闇だらけの街に綺麗に輝く、たった一つの光のように思えた。
艶があり、綺麗に整った長い黒髪。
赤く輝く宝石のような大きな瞳。
服装はスーツに、雨よけのレインコートだろうか。
それは上品で、いかにも高そうなものだった。
彼女のような人のためだけにあるような代物だ。
そんな彼女を前にしたら、居ても立ってもいられない。
俺は咄嗟に行動に出た。
『なあ、君。物凄く綺麗な姿をしてるね。
まるで天使のようだ。
しかも、ここじゃ見ないような服装じゃないか。
初めて来たのかな? よければ案内でも――』
『結構です』
は?
聞き間違いか?
俺だぞ?
俺みたいな美男子が誘っていることが分からない女なんていなかった。
素っ気ない娘でも、話くらいは聞いてくれた。
『待ってくれよ。そうツンケンすんなって。
困ってんだろ? な?』
ケーンは彼女の肩に手を回そうとした。
それが、より彼女の神経を逆撫でする行為だということを、ケーンは知らなかった。
『“やめろ”』
彼女の声は高く、小さな声だった。
それにもかかわらず、低く、辺りに響き渡るような錯覚を覚えるほどの威圧感があった。
『な……お嬢さん、何を言って――』
『“やめろと言っている”』
まるで、70キロの体重を持つ一般人が、60キロ級のボクサーに一発食らわせられたかのような、攻撃的な威嚇を込めた一言だった。
しかし、ケーンという男は、プライドと粘着質なところだけはそれに勝ったようだ。
勿論、これは悪い意味である。
『おい、聞こえねぇのか! 全く、礼儀がなってないな。
“女のくせに”』
ケーンは、大勢の前で自身のプライドをズタズタにされた。
そして、吐き捨てるように放ったその暴言は、彼の人生と性格そのものを物語っていた。
周りの群衆は、このしたたかな女がこの悪漢にどう立ち向かうのかを見物していたため、誰も止めなかった。
喧嘩の時、この街ではいつもの反応だった。
『呆れた。“分からないのか”?』
『自分自身の“愚かさ”が』
『お前のようなクズは、一生遊び呆けていればいい。
自分の愚かさに気づかず、転落するのにただ絶望すればいい。
それが社会のためだ』
そう言い放つと、彼女は遠くのほうへ姿を消すように去っていった。
ケーンはというと、面子が丸潰れになったため、完全に不貞腐れていた。
初めて女に拒絶されたのだ。
彼にとって、女とは自身になびくだけの存在だった。
それが今、一人の女丈夫によって打ち砕かれた。
ケーンにとって、これほどまでに屈辱的なことはない。
『ケ、ケーン……。
ま、まぁ、気にするな。
ああいう付き合いの悪い女も、たまにはいるさ』
『たまには?』
『そんなわけないだろ! ここの風俗を知らないのか! あのヤロォ……』
そう、この街では、ダンスが得意なケーンは人から好かれていた。
一般人では関われないような人間にも知られているケーンを振るというのは、この街では異例のことだった。
ただ、ケーンのこの行動を咎める者はいなかったが、ジョンは明らかに彼に対して失望していた。
『そ、そうだ! さっき、お前何か言いかけてただろ。
なんだったんだ? あれ』
『さっき……?』
そうだ、それだった。
『変な奴に襲われたんだ。
確か……雨に濡れて……みたいな歌を歌ってたかな』
『待て』
先程の女だった。
今度は威圧的ではない。
妙にその話題に関心があるようだった。
『そこまで案内しろ』
―――
『さっきのこと、謝れよ。
それに、どうしてだ?
ただの浮浪者のところに案内しろなんて』
『……詫びよう。
で、“その人”はどこだ?』
『“その人”? やけに丁寧な言い方だな。
浮浪者だろ?』
『撤回しろ』
『は?』
『撤回しろと言っている』
『……分かった、撤回するよ。
浮浪者とか関係ないよな』
『さっさと案内しろ。金なら大金を用意できる』
『へぇ、興味深いね。
そこまで執着するそいつって、何者なんだ?』
『だから、大金を払うと――』
『大金は関係ないね。俺にはその手段は効かない。
話さなきゃ、場所は明かさないぞ』
『……分かった。向かう途中で話そう』
こうして、俺達は目的地へ向かい始めた。
『それで、お前、名前は?』
『それは強制か?』
『強制だ』
『はぁ……クレア。クレア・レノンだ。
経歴までは話さん』
『クレアね』
『で、さっきのそいつって何者なんだ?』
『この世で最も正しく、気高き人だ』
『は?』
女は俺の言葉に耳も貸さず、そいつについて熱心に話し始めた。
『彼は、王であり、使徒であり、救世主でもあった。
彼の時代の人間には誇りがあり、真の意志と幸福があった。
その時代に生きた者以外は、この国の民とは言えない。
彼以外の人間は凡人だ。
……私を含めてな』
ケーンは、クレアの正気を疑った。
いきなり、先程まで何も話したがらなかった女が、熱狂的なまでに饒舌になったのだ。
しかし、それを指摘することはしなかった。
彼女が語る時の表情には、悲哀と、行き場のない恋心のようなものがあった。
それを否定すれば、厄介なことになるのは分かりきっていたからだ。
『その人の名は?』
『アベル・ライト。
全てを照らす、唯一の光そのものだ』
その言葉が落ちた瞬間、遠くのほうから、あの奇怪な歌声が聞こえた。
クレアはその声を聞いた瞬間、信じられないというような、悲哀のこもった顔をした。
しかし、すぐさま声の元へ向かった。
『アベルさん!!!』
クレアの声を聞き、それは振り返った。
『……懐かしい顔だね』
アベルと呼ばれたその男は、先程の男だった。
雰囲気とは対照的に、二十代ほどの若い顔立ちと体型に見える。
彼は先程の狂乱ぶりとは対照的に、大人しい声でクレアに応えた。
正気に戻った、とも取れるかもしれない。
『探しました……。
貴方がいなくなってから……皆は……私は……!』
クレアの涙ながらの喜びとは対照的に、アベルの目は冷めていた。
『クレア、誰の依頼だ?』
『ジェファーソン様です。
あの方も、貴方のことを心配して――』
『どのジェファーソン?』
『え? あ、オリビア様ですが……。
あの、アベルさん?』
『なるほどね。
クレア、残念だけど、俺は行かないよ』
『な、何を言っているのですか!
貴方は重大人物です!
もしものことがあれば大変なことに!
それに……私たちは、貴方なしでどうしろと……』
『僕は行かない。
二度言わせるな』
『そんな……どうしてですか?
貴方は私を拾い、導いてくれた。
そんな貴方に何かあるというのなら、私はどんなことでもいたします』
『僕は困ってないよ。
とにかくだ、クレア、帰ってくれ』
『か……帰れ……』
『ああ、そうだ』
『ちょ、ちょっと待ってくれ!』
俺は二人の会話に割って入った。
『アベルとか言ってたな。
アンタ、凄い人なのか?
頼むよ、今困ってるんだ。
俺に仕事をくれ!
なんでもする!』
クレアは、明らかにアベルに対して「邪魔だ」という感情を抱いていた。
しかし、アベルは違ったようで、
『ん? 君は……。
ああ! さっきの子だね?
夕飯はご馳走になったよ!』
『え?』
クレアは理解できないという表情を浮かべた。
何故なのか。
自分は、この人にあんな奴なんかよりずっと尽くし、信頼しているというのに。
何故、こんな見ず知らずのゴロツキのほうが、自分よりも好意的に接してもらえるのか。
クレアは拳を握りしめた。
爪が掌に食い込み、血が滲み出ていたが、気にならなかった。
『あ、ああ、そうだ。
俺がさっきの奴だ。
だから……アベルさん、俺に仕事を!』
『う~ん……君には恩がある。
助けたい気持ちはやまやまだけど、俺は今、そういった権力を持っていないからねぇ。
あ! そうだ。
クレア、やっぱり行くよ。
その代わり、彼に何か職を斡旋してくれ。
都市部で食うのに困らないやつを頼む』
『な……分かりました。
アベルさんが戻ってくれるというのならば……』
『よし。
君、名前は?』
『け、ケーンだ。
ショーン・ケーン、17歳。
今の職種は――』
『ケーンね。
うん、覚えたよ。
よろしくね、“ケーン君”』
『あ、ああ!』
『じゃあ、行こっか、クレア。
人目もあれだし、ちゃちゃっと行きたい。
“法術”を使おう』
『え、ええと……法術はオリビア様の許可なしには……。
人目を気にする理由も、特にないのでは――』
『ジェファーソンに直接、許可するよう言っておく。
やってくれ』
『分かりました……では』
『法術?』
俺がそう疑問を投げかけたのも束の間。
目の前には、高層ビルが並んでいた。
いかにもな都会だ。
そして、一際大きなビルにアベルとクレアは入っていく。
俺も二人についていき、中に入ろうとする。
すると、
『アベルさん、彼は置いていくべきです。
部外者は、そもそも立ち入り禁止ですし』
『いや、彼も連れてこう。
ジェファーソンに直接、彼に職を用意するよう要請する。
クレア、君だけだと権利上不安だし、それに性格上、仕事を斡旋してくれるかどうかも不明だからね』
『分かりました……では、ついてこい』
こうして俺達は、しばらく豪華な社内を歩いた後、エレベーターを使い、一番上の階まで登った。
エレベーターが開く。
目の前には、「社長室」と書かれた札と、部屋の扉があった。
『ジェファーソン様、お連れしました』
『入りなさい』
扉が開く。
そこにいたのは、長い茶髪と緑色の瞳が特徴的な女性だった。
聡明さと慈悲深さが滲み出ているかのような雰囲気を纏っている。
社長にしては若く、三十代ほどに見える。
正直、結構タイプかもしれない。
『……本当に……。
ようこそお越しくださいました。
ロードカンパニー二代目最高責任者、アベル・ライト様』
『様はいいと前から言ってるだろ、ジェファーソン。
……で、用件は?』
『もう……オリビアとは言ってくださらないのですね……』
『用件は?』
『……単刀直入に言います。
アベルさん、貴方にはロードカンパニーに戻っていただきたい。
会長としてまた活動しろとは言いません。
ただ、今の貴方には護衛も何もついていない。
貴方は私達にとって重要人物です。
せめて、保護下に入れておかなければなりません。
……貴方にとっても、断らない理由はないはずです……』
『断る』
即答だった。
ジェファーソンは、やっぱりというような表情をした。
『せめて、理由をお聞かせください』
『理由なんてないよ。それだけ?
それだけなら、連絡した通り、彼に仕事を持たせてやれ。
じゃあ、俺は帰るとするよ』
そう言うと、アベルは背を向けた。
本当に帰るつもりらしく、扉に向かって迷いなく歩き始める。
クレアは深い失望と憤りを隠せないようで、アベルに対して行き場のない怒りを込めた表情を向けていた。
しかし、アベルは気にしなかった。
『……皆、皆死にました』
アベルの動きが止まった。
『ロード様も、ブルーノ様も、そして、お祖父様も……。
皆……皆、もういません。
死にました。
アベルさん……貴方は今、一体何を守っているというのですか!』
『……』
『貴方のその大いなる使命に縛られ、こんなにも不憫に落ちぶれているのを見ると……憐れで仕方なくなる……』
『……不憫?』
アベルは振り向いた。
静かに怒りの表情を浮かべている。
『ああ、死んだよ。
確かに皆死んだ。
生き残っているのは、僕一人だ』
『だがね』
『僕は世界一幸せな人間だ』
『あの人達は僕に……ただ俺一人に、残したんだ。
様々なものを犠牲にして手に入れた、最も大切な全てを。
僕だけに』
『この重み、この有り難さ、それが分かるか?』
『分からないから、ただ死んだと言えるんだ。
俺達の時代も経験したことのない若造に、この気持ちが分かるはずがない!』
アベルはそう言い放つと、忽然と姿を消した。
俺は、気がつくとアベルを追いかけていた。
何故かは分からない。
ただ、あいつは俺が持っていないものを持っている。
俺が求めていたものを持っている。
そして、あのままただあそこにいたら、必ず後悔することだけは分かっていた。
『アベル!』
『……君か。
いいのかい? ここに来てしまって。
いい仕事に就けるはずだよ?』
『ただ……ただ、そんなことになっても満たされないことは分かってる!
ずっとそうだったんだ……ずっと……』
『……』
『アベルさん、あんた凄い人なんだろ!
ならさ、俺に色々と教えてくれよ!
俺もあんたみたいに、ああやって偉い人に説教できるような人になりたいんだよ!』
『ふふ、そう言ってくれるのかい……。
嬉しいね』
アベルは確かに笑っていた。
いつもの作り笑いとは少し違った。
本物の感情が、少しだけ入っていたような気がした。
『……“ショーン・ケーン”』
『!?』
『もし、僕についていくというのなら――』
『君はこれまで経験したことのないほどの、苦痛と苦難に見舞われることになるだろう。
それは、凡人として生き続けることなんかより、ずっと辛いことだよ。
それでもいいのかい?』
『……凡人として生きることよりマシだ。
一生満たされないことなんかより、そっちのほうがずっと』
『……いいよ。
ただ、一つだけ。
約束してほしいことがある』
『な、なんだ?』
『自分を否定してはいけないよ。
これから人生でやることは、自分のためだけにやるんだ。
決して、人のためにやらないということ。
だから、そのために自分を否定しないでほしい。
自分を否定することは、自分を信じてくれた人達や、これまでの自分自身を否定するようなものだ。
一番、無礼でやっちゃいけない行為だからね』
『? あ、ああ、分かった。
約束する』
『よろしい』
『あ、それともう一つ』
『さっき一つだけって――』
『僕に対しては敬語だ。
師匠だからね。
破ったら、何するか分からないよ?』
『ああ……い、いや、はい』
『フフ、これで僕の弟子だ。
ケーン君、君はこれから色々なことを経験するだろう。
でも、何よりも道草を楽しむことさ。
ここには、色々な面白いことやものがある。
それに、好きな子や友達なんかにも出会うかもしれないね。
ケーン君、今の君は最悪かもしれない。
でも、きっとこの世界は君を受け入れてくれるさ。
何故なら――』
『“君が思うより、世界は広いんだ”』
こうして、俺の人生は本当の意味で始まったのかもしれない。
会って間もないような人間に、自分の人生を預けるような真似をしてしまった。
しかも、かなり怪しい奴だ。
でも、自然と、今まで自分の中にあった渇きというものが、少しだけマシになったような……。
そんな感じがした。




