第1章 「黙殺」 第8話 三枝玲奈
三枝玲奈の住所は、世田谷の古いマンションだった。外壁は少し黒ずみ、階段の手すりはところどころ塗装が剥げている。だが、昼下がりの光が差し込むと、どこか温かい雰囲気すら漂っていた。
「……意外と普通の場所ですね」秋月がつぶやく。
「“影”ってのは普通の場所に潜むんだよ」刀根が妙にカッコつけて言う。
「刀根さん、急に名言っぽいこと言わないでください。似合わないので」
「似合わないって言うな!」
そんな賑やかなやり取りをしながら、三人は三階へ向かった。
魚沼が静かに言う。
「部屋番号、ここです」
ドアの前に立つと、秋月がインターホンを押した。
……反応なし。
もう一度押す。
……沈黙。
「また留守パターンですかね?」秋月が首をかしげる。
「いや、いる。気配がある」刀根が言う。「ほら、床がきしんだ」
「刀根さん、なんでそんなに気配に敏感なんですか?」
「刑事だからだよ!」
「いや、ただの勘ですよね」
「うるせぇ!」
秋月が優しく声をかける。
「三枝玲奈さん。警察です。お話を伺いたいだけです」
しばらくの沈黙のあと──
「……帰って」
低く、しかしはっきりした女性の声が返ってきた。
「帰れねぇよ」刀根が即答する。
「刀根さん、優しく!」
「優しくしてるだろ!」
「してません」
「……してないか」
そのとき、ドアノブがゆっくりと回った。
ドアが少しだけ開き、細い目がこちらを覗く。
「……何の用?」
現れたのは、長い黒髪を後ろで束ねた女性。
左足をわずかに引きずっている。
その目は、こちらを値踏みするように冷静だった。
「三枝玲奈さんですね。お話を──」
「話すことなんてない」
バタン、とドアが閉まりかけた瞬間、刀根が慌てて声を上げた。
「待て待て待て! 逃げる気か!?」
「逃げない。あなたたちが帰ればいいだけ」
「いや、帰れねぇんだよ!」
「刀根さん、落ち着いてください!」秋月が慌てて止める。
魚沼が静かに一歩前に出た。
「三枝さん。
あなた、黒瀬の“右腕”ですよね」
ドアの隙間が止まった。
「……誰から聞いたの?」
「元秘書の白石さんです」
「白石……あの人、余計なことを」
ドアが完全に閉まるかと思われたが、三枝はゆっくりと開けた。
そして、こちらをじっと見つめる。
「……入って」
「え、いいんですか?」秋月が驚く。
「外で話すのは嫌い。中でなら話す」
「なんか……思ったより協力的?」刀根が小声で言う。
「刀根さん、聞こえてますよ」秋月が肘で小突く。
三人は部屋に入った。
中は驚くほど整っていた。
家具は最小限、色も白と黒だけ。
生活感がほとんどない。
「座って」
三枝は淡々と言い、ソファを指差した。
「単刀直入に聞きます」秋月が切り出す。「宮田洋司さんの件、あなたは関わっていますか?」
「関わってない」
「じゃあ、なぜ工場の屋上にいたんですか?」刀根が食い気味に言う。
「見てただけ」
「見てただけって……何を?」
「黒瀬」
秋月と刀根が同時に息を呑む。
「黒瀬さんを……見張っていた?」
「そう。あの人、最近おかしかったから」
「おかしい?」秋月が尋ねる。
「焦ってた。
宮田が“何かを知った”って言ってた。
だから、宮田を呼び出した」
「呼び出したのは黒瀬……」秋月がつぶやく。
「でも、落としたのは黒瀬じゃない」
「え?」刀根が目を丸くする。
「黒瀬は“押してない”。
宮田は──自分で落ちた」
部屋の空気が一瞬止まった。
「自分で……?」秋月が眉をひそめる。
「黒瀬に追い詰められて、パニックになって……
足を滑らせた。
私は見てた」
「じゃあ、他殺じゃない……?」刀根がつぶやく。
「でも“事故”でもない。
黒瀬が追い詰めたから落ちた。
だから──黒瀬は“殺した”のと同じ」
秋月は深く息を吸った。
「三枝さん。
あなたは黒瀬の味方ですか?
それとも──敵ですか?」
三枝は少しだけ笑った。
その笑みは、どこか寂しげだった。
「味方でも敵でもない。
私は“影”。
光が動けば、影も動く。
黒瀬が落ちるなら──私も落ちる」
「落ちるって……どういう意味ですか?」秋月が尋ねる。
「黒瀬は逃げる。
でも、逃げ切れない。
あの人は“誰か”に追われてるから」
「誰か?」刀根が身を乗り出す。
三枝はゆっくりと秋月を見た。
「宮田の“弟”。
あの人が──黒瀬を追ってる」
三人は同時に固まった。
「弟……?」秋月がつぶやく。
「そう。
宮田工業の裏金を巡って、兄弟はずっと揉めてた。
黒瀬は弟と手を組んでたけど……
裏切った」
「裏切った……?」刀根が息を呑む。
「だから弟は黒瀬を追ってる。
宮田を落としたのは黒瀬じゃない。
でも──弟は黒瀬を“殺す気”でいる」
部屋の空気が一気に緊張した。
秋月は静かに言った。
「三枝さん。
黒瀬はどこにいますか?」
三枝は少しだけ迷い、そして答えた。
「……港湾倉庫。
逃げる準備をしてる」
刀根が立ち上がる。
「よし、行くぞ!」
「刀根さん、落ち着いてください!」
「落ち着いてられるか! 事件が動いてんだよ!」
魚沼が淡々と言う。
「港湾倉庫、地図出しました」
「早いな!」
「聞かれると思ったので」
「お前ほんと優秀だな……!」
三人は部屋を飛び出した。
黒瀬、宮田の弟、そして“影”の三枝玲奈。
事件は、さらに加速し始めていた。




