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目黒の秋刀魚  作者: 双鶴


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第1章 「黙殺」 第7話 元秘書・白石

 世田谷の住宅街は、朝の光がまだ柔らかく、静かな空気が漂っていた。黒瀬の“元秘書”という言葉が出た瞬間から、三人の足取りは自然と速くなっていた。秋月は歩きながら、横の刀根に目を向ける。


「黒瀬に秘書がいたなんて、初耳ですよね」


「初耳も初耳だよ。秘書って何だよ、あいつにそんな立派なもん必要か?」


「必要だったんでしょうね。裏の仕事を回すために」


「魚沼さん、なんで今まで言わなかったんですか?」


「聞かれなかったので」


「またそれかよ!」


 刀根の声が住宅街に響き、秋月が慌てて肘で小突いた。

 目的のアパートは二階建ての小さな建物で、外階段を上がると、白いドアが一つだけ並んでいた。


 秋月がインターホンを押すと、すぐに落ち着いた女性の声が返ってきた。


「はい、どちら様ですか?」


「警察です。黒瀬さんの件で、お話を伺いたいのですが」


 ドアが開き、女性が姿を見せた。

 30代後半、細身で、髪は肩まで。

 その目は、どこか“影”を抱えているように見えた。


「どうぞ。黒瀬さんのことなら……話すことはあります」


 部屋に入ると、整然とした空間が広がっていた。

 几帳面な性格がそのまま部屋に現れているようだった。


「黒瀬さんは……どういう人でしたか?」秋月が尋ねる。


「一言で言えば、“人を動かすのが上手い人”。優しい言葉も、冷たい言葉も、全部計算で使うタイプです」


「やっぱりな……」刀根が腕を組む。


「宮田工業が倒産したあと、黒瀬さんは“復讐”を口にしていました。でも、あの人の復讐は感情じゃない。“金になる復讐”なんです」


「金になる復讐……?」秋月がつぶやく。


「宮田さんを追い詰める動画を作れば再生数が伸びる。広告収入が入る。世論を動かせばスポンサーも付く。黒瀬さんは、そういう計算をしていました」


「完全にビジネスじゃねぇか」刀根が呆れた声を出す。


 白石は静かに頷いた。


「黒瀬さんにとっては、復讐も正義も全部“金の道具”なんです」


 その言葉には、怒りとも諦めともつかない感情が混ざっていた。


 秋月は少し間を置いてから、核心に触れた。


「白石さん。黒瀬さんの周りに、“左足を引きずる女性”はいませんでしたか?」


 白石の表情が一瞬だけ固まった。


「……います」


「誰ですか?」刀根が身を乗り出す。


「“三枝さえぐさ玲奈”。黒瀬さんが“右腕”として可愛がっていた女性です」


 秋月と刀根が同時に息を呑んだ。


「三枝玲奈は元々、宮田工業の派遣社員でした。でも黒瀬さんに取り入って、いつの間にか“黒瀬の影”みたいな存在になっていました」


「影……」秋月が小さくつぶやく。


「左足を引きずる癖は、昔の事故のせいです。黒瀬さんは“その癖が逆にいい”と言っていました」


「癖がいいって……どういう意味だよ」刀根が眉をひそめる。


「“特徴がある人間は記憶に残りやすい”。つまり“使いやすい”という意味です」


 秋月は深く息を吸った。


「三枝玲奈さんの住所、わかりますか?」


「わかります。でも……気をつけてください。あの人は黒瀬さん以上に“迷いがない”タイプです」


「迷いがない……?」刀根がつぶやく。


「黒瀬さんが“落とせ”と言えば、彼女は本当に人を落とすでしょう」


 部屋の空気が一瞬だけ凍りついた。


 刀根が立ち上がる。


「秋月、行くぞ」


「魚沼さん、三枝玲奈の情報をまとめてください」


「すでにまとめてあります」


「早いな!」


「聞かれると思ったので」


「お前のそういうとこ、ほんと助かるわ……」


 秋月は白石に深く頭を下げた。


「ありがとうございます。あなたの情報で、事件が一歩進みました」


「進むのはいいけど……あなたたち、本当に気をつけてくださいね。三枝玲奈は“黒瀬の影”です。影は光が当たると逃げます。でも──追い詰められた影は、牙をむきます」


 秋月は静かに頷いた。


「大丈夫です。僕たちは“影”より速いので」


「お前、たまにカッコつけるよな」刀根が笑う。


「たまにじゃないです。いつもです」魚沼が淡々と言う。


「お前まで言うな!」


 三人はアパートを後にした。

 次の目的地は──“黒瀬の影”こと、三枝玲奈。


 事件は、さらに深い闇へと踏み込もうとしていた。


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