第1章 「黙殺」 第38話 見えない手
田嶋剛志──与党の実力者。
その名が取調室で出た翌日、強行犯係の空気は一変していた。
朝の会議室。
秋刀魚トリオ、片桐係長、宮本班長が揃っていたが、誰も余計な言葉を発しなかった。
「……証言は録音も記録も残っている。
だが、これをそのまま捜査本部に上げれば、どうなるか分かるわね」
宮本班長の声は低く、冷静だった。
「握りつぶされる可能性が高いです」
魚沼が言う。
「いや、握りつぶすどころか……俺らが飛ばされるかもな」
刀根が苦笑した。
「飛ばされるだけならまだいい」
片桐係長が静かに言った。
「“田嶋”が絡む案件は、触れた瞬間に政治の領域だ。
警察内部にも、あいつと繋がってる連中はいる」
秋月は黙っていた。
だが、その目は鋭く光っていた。
「……それでも、やるしかない」
その言葉に、班長がわずかに頷いた。
「覚悟はしておきなさい。
今日から、あなたたちの周りに“見えない手”が動き始める」
その予感は、昼前には現実になった。
捜査本部から一本の電話が入った。
『強行犯係の田川関連の捜査は、いったん停止とします。
上からの指示です」
片桐係長が受話器を握りしめた。
「理由は?」
『“政治的配慮”だそうです』
電話はそれだけで切れた。
フロアに戻った片桐係長の顔は、怒りを押し殺したように硬かった。
「……止められた。
田川の件は“これ以上触るな”だとよ」
「そんな……!」
魚沼が声を上げる。
「証言があるのに……?」
刀根が歯を食いしばる。
「証言があるからこそ、だ」
片桐が低く言った。
「田嶋に繋がる可能性がある捜査は、全部止められる」
秋月はゆっくりと立ち上がった。
「……つまり、田嶋はもう動いている」
宮本班長が秋月を見る。
「ええ。
あなたたちが“核心に触れた”と判断したのよ。
だから封じに来た」
その時、強行犯係の内線が鳴った。
『強行犯係・秋月巡査部長、刀根巡査、魚沼巡査。
至急、署長室へ』
フロアが静まり返った。
「……来たわね」
宮本班長が呟く。
「署長室って……まさか」
刀根が青ざめる。
「政治案件の時は、まず“口封じ”からよ」
班長の声は冷静だった。
「行ってきます」
秋月が短く言った。
「秋月」
班長が呼び止める。
「何を言われても、感情で動かないこと。
あなたたちを守るのは私たち。
あなたたちは、ただ事実だけを話しなさい」
秋月は深く頷いた。
三人は署長室へ向かった。
廊下は妙に静かで、空気が重い。
扉の前に立つと、刀根が小さく息を呑んだ。
「……秋月さん。
俺ら、消されるんすかね」
「消されない」
秋月は静かに言った。
「消されるなら、もうとっくにやられてる。
今は“脅し”の段階だ」
魚沼が小さく頷いた。
「行こう」
秋月が扉をノックし、開けた。
署長室の扉を開けた瞬間、空気が変わった。
奥のソファに座っていたのは、見慣れないスーツの男だった。
年齢は四十代半ば。
整った髪型、無駄のない仕立てのスーツ。
だが何より目を引いたのは、その“笑み”だった。
「君たちが……秋月くんたちだね」
柔らかい声。
しかし、目は笑っていない。
署長が紹介する。
「こちらは──田嶋議員の秘書、三輪さんだ」
秋刀魚トリオの背筋がわずかに強張った。
田嶋剛志の名が出た翌日に、その秘書が署に来る──偶然ではない。
「少し、お話をね」
三輪は穏やかに言った。
署長が席を外し、部屋には三輪と秋刀魚トリオだけが残った。
静寂が落ちる。
「田川圭介さんの件……大変でしたね」
三輪は優しい声で言った。
だが、その言葉の裏に何があるかは明白だった。
「あなたたちが追っていた“線”についても、少し耳にしています」
秋月は表情を変えずに答える。
「捜査内容はお話しできません」
「もちろん。そんなことは期待していませんよ」
三輪は微笑んだ。
その笑みは、氷のように冷たかった。
「ただ……田川さんは、非常に繊細な方でした。
追い詰められれば、ああいう結果になることも……理解できます」
刀根が拳を握る。
秋月が横目で制した。
「それで?」
秋月が静かに問う。
「ええ、単純な話です」
三輪は脚を組み替えた。
「田川さんの死を、これ以上“広げないでほしい”。
それだけです」
その言葉は、脅しではない。
しかし、脅しより重かった。
「我々としても、警察の皆さんには敬意を持っています。
若い方々が、将来を棒に振るようなことになっては……残念でしょう?」
魚沼の喉がわずかに動いた。
刀根は歯を食いしばる。
秋月だけが、微動だにしなかった。
「……脅しているんですか?」
三輪は笑った。
「まさか。
ただ“助言”をしているだけですよ。
あなたたちのために」
その瞬間、部屋の温度が数度下がったように感じた。
三輪は立ち上がり、スーツの袖を整えた。
「では、これで。
あなたたちの今後に……期待していますよ」
その“期待”が何を意味するか、誰もが理解していた。
三輪が去った後、部屋には重い沈黙だけが残った。
廊下に出ると、片桐係長が待っていた。
その顔は怒りを押し殺している。
「……何を言われた?」
秋月は短く答えた。
「“黙れ”と言われました」
片桐は深く息を吐いた。
「来ると思ってたが……早かったな」
そこへ宮本班長が歩いてきた。
表情は変わらない。
「秋月、刀根、魚沼。
ここから先は、あなたたちだけで動くな。
必ず私か片桐係長を通しなさい」
「……はい」
「圧力はこれからもっと強くなる。
でも、怯む必要はない。
私たちが前に立つ」
その言葉に、秋刀魚トリオは静かに頷いた。
その日の夕方。
捜査本部から“正式”な通達が届いた。
『田川圭介関連の捜査は、全て停止とする』
紙一枚で、真相への道が閉ざされた。
秋月はその紙を見つめ、ゆっくりと折りたたんだ。
「……まだ終わっていない」
その声は低く、しかし確かだった。
見えない手が動き始めた今こそ──
秋刀魚は、決して止まらない。




