現風景編5
「小さい頃、海が怖くて。
両親に連れられて行ったんだけど、ちょうどお盆の時期だったのかな。
クラゲに刺されて。それも、さされたところが真赤に腫れて。
それからしばらく海には行きたくなかったなぁ」
新幹線の窓にもたれながら、アヤネがひとりごちた。
「イヅルは泳げる? 私はいまだに全然。
だからみんなで遊びに行っても、いつも日傘の下、場所取りだったんだ」
「……俺は、別にいいけど」
俺には失うものなんてないし。会社はどうせ、辞めるのだから。
「お前はどうなんだ? いろいろあるだろ。仕事とか、……婚約者のこととか
将来のこととか。」
「結婚するなら、どうせ辞めなきゃならないから。いまさらどうにもならないわ。
それにアイツは……。いいの。それは私が決めることだから」
婚約者に、並々ならぬ感情を悟って。
俺はそれ以上の深入りをやめる。
こうやって、流されて。
俺はどこまで行くんだ?
「それに、私とあなた、同じ年じゃない。同じくらい時間が残されてるはずでしょう?
まるでおじいさんになったみたいな口ぶりね」
アヤネは笑った。
残された時間が、同じでも。
積み上げてきたもの。積み上げるべきもの。目指す場所。……それが同じだとは限らない。生み出したものが、等しい価値だとは。俺みたいに浮き草のように、基盤のない生活を考えているのだろうか。
ま。
……当の本人の俺から。
それが正しくない、などと。
何の説得力もないのだけれど。
「きれいな景色だな。
山なんて、久しぶりに見る。
……寝るから、付いたら起こしてくれ」
だから、俺は。
そういって、少し目をつむる。
そうやって。
現実からも、アヤネからも目をそらすのだった。
○
駅のホームには人気が少ない。
俺とアヤネは手に息を当てて、こすり合わせて温めて。
目を見合わせて笑った。
「……アテはあるのか?
ま、お前は実家に戻ってもいいかもしれないけど」
俺の家は引っ越して、この地にないから。
「ううん、いきなり行ったら驚くと思うから。
今日はホテルにでも泊まろうかな。
……、今、変なこと考えたでしょ」
俺の顔を察して、アヤネは眉をしかめた。
「か、考えてねえよ」
「ふふ、そう?
ま、いいんだけどさ。部屋が同じでも。
イヅルだったらね。昔から一緒だし」
「とにかく、飯でも食おうぜ」
「さんせーい!」
というわけで、俺らは夜の街に繰り出した。
○
「私もねぇ、昔はこんなんじゃなかったのよ」
……。
こいつ、酔っぱらうとメンドくさいんだな。
こんなに飲んだの初めてみた。
「がんばってたし、みんなからも評価されてたし。
ああ、いつからこんなんになっちゃったのかなぁ」
「そんなことないだろ?
今だって、俺から見れば十分立派だよ」
「ねえ知ってる? 一度結婚したら、二度と出世できないんだって。
いつ妊娠するか分からないし、そしたらばりばり働けないから。
このご時世に、とんだ男尊女卑だと思わない?」
「……ま、言いたいことは分かるけど」
「結婚しろっていうから、ここまで来たけどさぁ。
私だってまだ仕事したいし。
……ねえ、イヅル、私と結婚しようよ。そしたらきっとうまくいくよ。
あなたの分も、私ががんばるから」
「釣り合わないよ」
俺は足元にあった石を蹴り飛ばした。
「俺は倒れて、先行き真っ暗。もうすぐ無職。
お前は華々しい仕事。ぶつかっては逃げてばっかの俺には、とうてい」
がんばって。
……少なくても、自分が思えるくらいには。
力の限り。
出し尽くして。
……それでも、俺はいつも。
壁に打ちのめされて。
ああ、ここが限界だったのだと。
俺はこんなもんなのだと。
諦めと、失望の中で。
膝を折る。
……それは、どっちの世界でも同じだった。
「……そんなことない」
「え?」
「そんなことない!
イヅルはいつだって……。
駄目だけど、がんばってた。
失敗しても、立ち上がってた。
……私の好きな人を、そんな風に卑下しないで……」
俺は。
……。
「飲みすぎだ」
俺は、アヤネの身体を背負いなおすと。
ビジネスホテルへを目指す歩を早めた。
これ以上居たら。
居たら?
……。
心が揺らいでしまう。
そんな気がしたから。
○
かつての恩師は、俺らを見て、柔和そうに微笑んだ。
年をとり、あちこちが弱ってはいたものの……その笑顔は、相変わらずだ。
「ああ、よく来てくれたね。アヤネちゃんに……ええっと」
「イヅルです。彼、クラスの中であまり目立たない方だったから」
アヤネが笑いながら、答える。
「そうそう。けれど真面目でね、教師の中じゃ評判だったよ」
「女子の中でもそうですよ」
「俺に世辞言ってどうする」
俺はアヤネの肩を小突く。
「……すまないね、本当は同級会でも開けばよかったのかもしれないが。
少し身体にガタがきて。それでも、君らみたいな教え子が来てくれるから、退屈はしないのだけど」
「奥様は? 姿が見えないようですけれど」
「あいつは、2年前に逝ったよ。
今は娘が、週に何度か面倒を見てくれてる」
その言葉に、俺らは。
「ああ、気にすることじゃない。生きてる以上、寿命はあるからね。
ただ、寂しいなとは思うけど。
それよりそっちはどうなんだ?
もう、いい年だろう。二人で来たってことは、そういうことなのかな」
「いえ、ちが」
俺の言葉をさえぎって。
アヤネは俺の腕を取った。
「はい、実はそうなんです。
今度の帰省も、それが理由で。
せっかくだから、先生にも報告しなきゃって、二人で話し合って、
飛び乗ってきたんです」
「そうか、そうか……。
式はいつごろに? 私もそう長くはなさそうだ」
「年内には。ね?」
アヤネはこちらを振り向いた。
その言葉の裏は。
話を合わせろ、という意味なのだろう。
俺はだまって頷いた。
「めでたいことだなぁ。年を取ると、すべてが美しくみえる。
君らみたいに、昔ながらの知り合いが結婚するという話をきくと、なんだかほっとするな。
とにかく、よかった。
幸せそうな笑顔をみて。
……病気の快復を、祈りながら。
そして、俺らは。
腕を組んだまま、部屋を後にする。
「……、おい、どういうつもりだ」
「何が?」
アヤネはすぐとなりで、顔を上げた。
目と鼻がくっつきそうな距離。
まるで恋人のように。
「何がって……。馬鹿げてるだろ。
俺らは結婚するわけじゃないんだぜ?
先生を騙すことに、負い目とかないのかよ」
「本当にしちゃえばいいじゃない」
「お前、本気か?」
「どうして嘘なんてつくのよ」
「第一、釣り合わないだろ。
お前にはそもそも、婚約者が居るし……」
「だから言ったでしょう。このまま連れて逃げてって。
それに、釣り合うかどうかなんて関係ない。
私が決めたの。私が選んだの。ずっと傍にいる。
そして守ってあげる。あなたがまた、倒れたり、人生に絶望したりしないように」
それは。
……それは。
とても、ありがたい。
その気持ちは、嬉しい。
けど、違うのだ。
確かに、俺は挫折した。
この世界を呪って。
自分に絶望して。
……。
そして、違う世界に飛ばされた。
けれど、もしアヤネの申し出を受けてしまったら。
むこうであった人たちの。
俺が、助けた人々の。
俺を、助けてくれた人々の。
想いを、裏切ることになってしまう。
俺しか知らない物語だから。
……俺が忘れては、いけないのだ。
「なんで!? 私がいれば、あなたを守ってあげられる。
もう、そんな悲しい顔をさせないように」
「違う」
「え?」
「……ありがとう。でも、違うんだ」
俺はアヤネの頭をそっとなで。
そして体から離れる。
「俺は。……俺には、まだ、やり残したことがある」
もう、絶望しないから。
……いや、もしかしたらするかもしれない。
けれど、できるだけしないように。
弱い自分の言い訳を。
世界に求めるなんてことは!
「だから、行くよ」
「待って!」
俺は、もう。
世界を呪ったりしない!
「世界よ――」
俺の言葉で。
それ(魔法)は発動し。
俺の全身の感覚が、薄れていくのがわかる。
薄れゆく視界の中で、アヤネが泣いているのがみえる。
ああ。
こんな顔にさせてしまったのは俺なのだ。
俺が悪いのだ。
……。
けれど。
謝るのは、よそう。
自分の都合で、いなくなる俺だから。
せめて、俺を嫌う権利ぐらいは、残してあげよう。
だから、俺は手をふって。
少しばかり茶化して。
「じゃあな」
と。
耳に響く、彼女の声。
こびりつく嗚咽。
ああ。
けれど行かなきゃ。
俺が居ない間も、俺を助けてくれていた友人。
すべてを捨てても、俺を守ろうとしてくれた親友。
その気持ちにも応えるためにも。
世界よ、滅べ。




