9 君の名は
倒れていた人の声が、聞こえる。
ディアスがいち早く彼の元へ向かい、様子を見守っていた。――というよりも、あれは警戒していると言った方が良さそうな目付きだけど。
私も急いで小上がりに行くと、顔を覗きこむ。
ほんと、随分と殴られたものね。顔が、ぐっちゃぐっちゃに腫れ上がっているわ。
目の上も腫れてるけど、見えるかな。ちょっと心配。
「もしもーし。意識、戻った? 私の顔、見えるかしら?」
ゆっくりと開いた瞳が、私の顔に焦点を合わせようとする。
慌てて彼の目の前に、指を差し出す。
「これ、見えますか? 何本に見えるかな」
「あ……あなた……は……めが、み?」
は?
いや、そんなこと聞いてないし、私は女神でもない。
まあそう言われたら、まんざらでもないけどね。
「意識は戻ってきたのかな。数、数えられる?」
「さんほ……ん」
「はい、大丈夫そうね。良かった。体を起こせると、いいんだけど」
「手を貸そう」
ランディオさんが彼の背中に腕を入れる。こちらの意図がわかったのか、倒れてた人がゆっくりと体を起こした。
「あぁ、良かった。今、お白湯お持ちしますからね。ランディオさん、申し訳ないけど、彼を壁際に寄せてもらえる?」
「任せてくれ」
あの上腕二頭筋、頼れるわぁ。
筋肉は裏切らないって、本当かしらね。
「筋肉は鍛え続けないと、裏切るぞ」
「えっ、私口に出してた?」
「頼れる上腕二頭筋ってところから」
「嘘、全部じゃない」
ディアスが用意してくれた湯飲みを、彼に渡す。
「はい、お白湯。ゆっくりと飲んでね。まずは体に、水分を入れてあげて」
私の声に、こくりと頷く。
ゆっくりと湯飲み一杯分を飲み込んだ彼は、少しだけ生気を取り戻したようだ。
「少し休んでいて。胃に何か入れないと。ねぇあなた。随分とガリガリだし、殴られたあとあるし。ご飯は食べれていたの?」
「いや──もう何日も、口にしていない」
「そう。じゃあ、胃の負担にならないようなものにするわね」
こんなときお米があれば、重湯でも作ってあげられるんだけどなぁ。
まだこの世界では稲を見ていないけれど、絶対にあるはず。だってあの乙女ゲームで、お米を使った料理が出てきてたんだもん。
ないはずがない!
とりあえず、消化の良さそうなスープを渡して食べさせる。
その間に、ディアスに頼んで常備薬のウッスウスポーションを出してきてもらった。
この『ウッスウスポーション』は、その商品名の通りポーションを薄めたもの。どの家庭にも一本は常備薬として置いてある廉価版のポーションで、体力を回復させてくれる。胃が食べ物を受け付けるようになってくれていれば、この廉価版のポーションも活用できそうだ。
「はい、これも飲んで」
「これは……ポーションですか」
「ウッスウスポーションよ。安いやつだからすぐ治ったりはしないけど、体力は回復するわ。そうすれば、どこかで日を過ごすこともできるでしょう」
さすがに、男性をこの店に泊まらせるわけにはいかない。かと言って、素性のわからない人間を、妹たちのいる家に連れ帰ることは避けたいしね。
うちの領には労働で支払いするタイプの宿屋もあるから、そこに案内すれば良いだろう。
「何から何まで……。あの、あなたのお名前は」
「私はアニタ。この店の主よ」
「おお、アニタ嬢。なんと神々しい名前」
「え、えぇ……?」
ヤバイ。
この人、殴られすぎて、頭がおかしくなっちゃったのかな。
私と彼の間に、ディアスが素早く体を入れてきた。
ちらりとランディオさんを見れば、笑いを堪えている。ちょっとやめてよ。私もそっち側に行きたい。
「アニタ嬢、あなたは俺の救いの女神だ」
「あ、いえその、あなたを見つけたのはセレクさんだし、ここに運んでくださったのは、ディアスとランディオさんですし……」
目を合わせてこようとする。
やめて、今のあなたのお顔は腫れ上がっていて、ちょっと怖いのよ。
あと、別の意味で怖い。手を握ろうとするな。
その手は当然、ディアスによって阻まれているけど。
必死で目線をそらしても、顔を動かして目を合わせようとする。
体力、戻ってきてるじゃないの。
「と、とりあえず、落ち着いて。えぇと――」
「あっ。これは名乗りもせずに、失礼いたしました。俺の名前はジャンジャック。今は家名を持たない、ただの男です」
ジャン……ジャック……?
どこかで聞いたことがあるような。
しかも、わざわざ今は家名を持たないとか言う? 成り上がり精神でもあるというの? そういうヤツは、我が家には不要なタイプね。
「ん?」
いや、待って。
この人の髪の毛の色。薄汚れているけど、よく見たら薄水色。瞳の色は――いや、あの目をじっと見るのは勘違いされそうだ。さっきちらっと見た限りでは藍色だった。
私は、そういう色合いを持つジャンジャックって男を、一人知っている。
「あなた……」
そこまで言って、口をつぐむ。
今ここで二人に知らせる必要は、ないものね。
彼が、元第三王子だと言うことを。
――たぶん、だけど。
十中八九、本人だ。




