40 モジュネール博士
私は今、とてもとても緊張している。
というのも、目の前に憧れの方がいるからだ。
え? ディアス?
違う違う。
いや、その言い方は失礼か。
ディアスはそりゃぁ、つい昨夜、私のその──いわゆるコンヤクシャになったワケなんだけどさ。
それとはまた違う、長い間お会いしたかった方が、目の前に座っているのだ。
お名前は、モジュネール博士。
植物学がご専門の博士のことは、学園に入る前から知っていた。
というか、前世のときから知っていたというか。
乙女ゲームのお助けキャラという、設定なのよね。
でも、私が会いたかったのは、そういう意味ではない。
我が子爵領を豊かにするためにも必要な、他の領にはない植物の情報を、どうにか手に入れたかったのだ。
フィールドワークのため、あちらこちらの国を移動している博士には、なかなかお会いすることができない。
それがついに今日!
お会いすることができたのだ!
モジュネール博士は、想像以上にお若い──とは言っても、私の親くらいの年齢は少なくともいってると思うけれど、まったくそうは見えない──美しい女性の方だった。
そんなわけで、私は先ほどから必死に我が領の気候、そして私が探している植物――稲のイメージを伝えている。
また、それとは別に、我が領に良さそうな植物の情報についても、助力を請うているわけなのだ。
「……なるほど。お話を伺うに、アニタ嬢が探しているのはスイラの苗でしょう」
「スイラ……なんと美しい響き」
スイラ……スイ……ラ。ラ、ライス! ライスじゃない!
これは絶対、稲のことだわ!
「はい。スイラは種を蒔き、出てきた苗を、水を多く張った畑に植え付けます。秋になると、大きく実った穂から、麦のように収穫ができる穀物です」
いやそれまさに稲よね。それは完全に稲だわ。
「そ、そのスイラは、どこで手に入れることができるでしょう」
「主に東の方の国で栽培されていますが、私が今、その種を多く持っているのでおわけしましょう」
「よろしいのですか?!」
「ええ。スイラについてこんなにも興味を持ってくださる方に、初めて出会いました。あなた様になら、安心してお預けできそうです」
その言葉に、私の脳内は一気に、領地のとある農地に思考が飛んだ。
戻ったらすぐに、田んぼを作らないといけないわね。
「ただし一つだけ、条件があります」
「は、はい!」
そりゃそうよね。大切な種籾ですもん。
気軽にどうぞどうぞなんてワケにもいかないよね。
お金かな。
先行投資として多少ならどうにか、領地のお金を予算としてつけることはできるだろうけど──うぅん、どうだろうか。
「私もモルニカ子爵領に伺い、一年とちょっとの間滞在をさせてください。そして、このスイラの成長を、観察させていただきたいのです」
モジュネール博士の出した条件は、むしろお願いしたい類のことだった。
植物博士が滞在してくださるなら、鬼に金棒というやつだと思う。
正直私は稲作の知識なんて、小学校の小さな田んぼと、テレビのバラエティ番組の知識くらいしかないし……。
一般のOLなんてそんなもんよね? 農業に携わったことがない、植物栽培だって小学校の授業と夏休みの宿題でしかない、そんな感じだもの。
あ、もちろん今の生を受けてからは、領内の農業についてとかは学んだけどさ。それでも、この世界で一般的ではない稲作については、ドがつくほどの素人だ。
「モジュネール博士! ぜひ、ぜひお願いいたします」
私が思わず立ち上がり、博士の両手をぶんぶんと握ると、彼女は楽しそうに笑いながら「ではよろしくお願いいたします」と返してくれた。
よし! これで稲作がうまくいけば、他の領地にはない名産品となる。
それに稲を元にした商品開発や食べ方ならば、元日本人の私はプロと言える。──この世界の他の人と比べて、だけど。
まずは土作り。
そこからだ。
そんな話をすれば、博士も嬉しそうに手帳を出してくる。
そして私たちは、土作りの計画を始めたのだった。
***
王都に行くときとはずいぶん違う状況で、私は、いや、私たちは子爵領へ向かっている。
ごとごとと揺れる馬車の後部座席には、ソマイアとネルツァ様からいただいた、お祝いの品が山積みになっていた。
他はあとで別で送る、なんて言ってくれたのだから、ありがたいことだ。
盛大な結婚式は予算上できないだろうけれど、小さなお祝いのパーティはすると思うので、二人には必ず、招待状を出そうと改めて思った。いや、送るつもりではあったんだけどね。
「青い鳥は、すぐ近くにいるものなのね」
なんてソマイアは言っていたけれど、前世を考えても、まず青い鳥が存在していてくれたことが、ファンタジーよね。
たいていは、すぐ近くにだってそんな異性落ちてないもの。
それは選ぶ選ばないの問題じゃなくて、存在しているかいないかというレベルだわ。
「あなたはあなたの幸せを、きちんとつかみ取るのよ」
まるでお母さまに言われたことのように、ソマイアは私にそう告げた。
でも、そうね。
この先の人生で、私だけではなく、一緒に子爵領のことを考えてくれる人がいる。
たったそれだけのことが、とても嬉しい。
そしてそれが、信頼できて安心できる。そんな人だから余計に。
「まさか、あんなに二人に喜んでもらえるとは」
「そうですか? ソマイア様は、お嬢のことをとても大切に思っておられたから、その喜びは当然でしょう」
行きよりも、私との物理的距離が近い状態で座るディアスに、思わず笑ってしまう。
「ねぇ。私のことは、アニタと呼んでくれないの?」
「……旦那様と奥方様に、婚姻の許可を得るまでは」
「ふふ。まぁ良いわ。そういうところがディアスっぽいものね」
彼の手に、自分のてを重ねれば、少し困ったような嬉しいような顔で、私を見る。
「いや?」
「嫌なわけないでしょう。こっちは我慢してるんだから、もう少し、こう」
「でも、物理的距離を近くしているのは、ディアスの方だわ」
「それはそれ、ですよ。せっかくだから……」
「しかも、昨日は散々私のことからかってさ」
「からかった訳じゃないですよ。俺だって、お嬢とその――婚約者になれたことが嬉しくて浮かれて」
「浮かれて……」
「今もかなり浮かれてんですよ。でも、いろいろ我慢しないといけないことが」
「我慢……」
じっとディアスを見れば、彼も耳が赤くなっている。
そうか。浮かれているのは、私だけじゃないんだ。
なんだか嬉しくなる。
「ディーアス」
今度は彼の手をぎゅ、と握る。
「ほんとに、もうお嬢は」
少しだけ眉を下げて、まるで困ったような顔をしているけれど、やっぱり耳が赤い。
私だって好きだと自覚した以上、イチャイチャとかしてみたいわけだし。
――体を近付けているだけで安心できるなんて、初めて知った。




