九話 恋愛相談
パソコンの液晶画面が発する青白い光が、暗い部屋をうっすらと照らしている。
俺はベッドの上で膝を抱え、穴が開くほど画面を注視していた。ショッピングサイトの画面に表示されているのは、前からずっと欲しくてたまらなかった限定モデルのヘッドホンだ。
「超欲しい……!」
デザインも音質も完璧。レビュー評価も星五つ。まさに夢にまで見た逸品だった。
……が、そのすぐ下に表示されている数字を目にした瞬間、俺の口から深い溜息が漏れた。
「……高ぇ」
目玉が飛び出るような金額だった。
貯金を崩せば、まあ買えなくはない。だが、もしこれをポチってしまえば、今月の残りの生活費は極限まで削られ、もやしと豆腐だけで飢えを凌ぐ極貧生活に突入することは確実だった。
(うーん……我慢すべきか、欲望に従うべきか……)
こういう時に決まって現れるのが、俺の良心と欲望を司る脳内のあのふたりだ。そろそろ「買いましょう!」「いやポチっちまえよ!」の泥沼論争が始まるぞ……と身構えたのだが。
ぽつん。
いつもなら眩い光と共に天使が現れる左肩の空間には、誰もいない。
右肩の上にだけ、黒いモヤと共に小さな悪魔が姿を現した。
「……あれ? 天使は?」
「……あいつ、天界の定期報告だかで、ちょっと用事だ」
悪魔は漆黒の翼をだらりと下げ、どこか歯切れの悪い様子で答えた。
俺は画面を指さし、悪魔に意見を求めてみる。
「なぁ、これめちゃくちゃ欲しいんだけど、高くてさ。どう思う?」
「……買っちまえよ」
返ってきたのは、拍子抜けするほど気のない返事だった。
いつもの「ハッ! 後先考えるな! 欲望のままに買っちまえ!」という悪魔らしい威勢の良さが微塵もない。腕を組み、浮かない顔でどこか遠くを見つめている。
「……なんか調子狂うな。体調でも悪いのか?」
あまりの違和感に俺が怪しんでいると、悪魔は深々と溜息をつき、パッと顔を上げた。
「……なあ、人間」
「ん?」
「……恋愛って、どうすりゃいいんだ?」
真面目な顔で投げかけられたその問いに、俺は思わず開いた口が塞がらなくなった。
「……なんで俺に聞いた?」
「だってお前、人間だろ」
「人間なら全員恋愛のプロみたいな言い方やめろ。俺だってこの前初めて女子と連絡先交換したレベルなんだよ」
悪魔はまたしおしおと肩を落とした。真紅の瞳に、見たこともないような深い悩みの色が浮かんでいる。
「俺さ……あいつに好かれてる自信がねぇんだ」
「は?」
思わず素で声が出た。
あの天使が悪魔を好きじゃない? 毎日毎日、俺の脳内で胸焼けがするほどのドSな執着と過剰な愛を注ぎ込んである、あの糸目天使が?
「お前、頭でも打ったのか? あいつ、お前のことめちゃくちゃ好きだろ。昨日だって『僕の悪魔さんは世界一可愛い』とか言ってたぞ」
「言葉なんていくらでも飾れるだろ!」
悪魔は自分の膝を抱え込み、消え入りそうな声で溢した。
「あいつは……天使なんだよ。俺は悪魔だ。本来なら相容れない存在なんだ。あいつが俺に優しくするのも、抱きしめてくるのも……全部『天使として悪魔を管理しているだけ』なんじゃないかって、最近思うんだよ」
「管理……ねぇ」
「そうだよ! あいつにとって俺は、ただの『管理対象の珍しいペット』みたいなもんで、本当に『一人の悪魔』として愛されてるわけじゃねぇんじゃないかって……。俺が『好きだ』って言っても、あいつはいつも余裕そうな顔で笑って、かわすだけだしよ……」
悪魔の言葉は、切実だった。
普段は強がって、天使に反抗してばかりの悪魔。だがその内面では、「自分だけが本気で相手を好きなんじゃないか」「いつか捨てられるんじゃないか」という凄まじい不安と孤独感を抱えていたのだ。
……なるほど。前回の白石さんとのカフェデートの時、天使の「昔の思い出話」に過剰に照れて暴れていたのも、ただ恥ずかしかっただけではなく、この不安があったからなのか。
(意外と乙女というか、めちゃくちゃ繊細だな、こいつ……)
俺は画面のヘッドホンから視線を外し、肩の上の小さな悪魔を見つめた。
「なぁ」
「なんだよ」
「そんなに不安なら、普通に本人に聞けばいいじゃん。『俺のこと、本当はどう思ってんの?』って」
俺が至極全当な解決策を提示すると、悪魔は跳ね上がるように怒鳴った。
「聞けるわけねぇだろバカ!!」
「なんでだよ」
「そんなもん……聞いてもし『仕事で管理してるだけだよ』なんて言われたら、俺、マジで消滅する自信があるわ! それに、重い奴だと思われるのも嫌なんだよ……!」
真っ赤になった顔を両手で覆い、身をよじる悪魔。
不器用で、プライドが高くて、けれど誰よりも天使のことが大好きなのが嫌というほど伝わってくる。
(めんどうくさい……めんどうくさいけど、ちょっと可愛いな、こいつ)
「まぁ、俺から言わせてもらえば心配しすぎだけどな」
「気休めはいいよ……」
「気休めじゃなくて事実だよ。あいつが管理のためだけに、あんなエグい顔して他人の担当悪魔をボコボコに叩きのめしたり、お前が朝弱いからってデロデロに甘やかしたりするかよ。あれはただの執着と独占欲だろ」
「うぐっ……」と悪魔が言葉を詰まらせた、その時だった。
ふわりと、部屋の中に甘く聖なる香りが漂った。
天界からの帰還を示す、柔らかな光の粒子が室内を舞う。
「っ! やばい、あいつが戻ってくる!」
悪魔は弾かれたように跳び起き、大慌てで俺の鼻先に指を突きつけた。
「じ、じゃあこの話は絶対に秘密だからな! あいつに言ったらマジで殺すからな!!」
「はいはい、分かってるって」
俺が素早く頷いた直後、純白の光の中から糸目の天使が優雅に姿を現した。
「ただいま戻りました、ご主人……おや?」
天使は宙に着地すると、首を少し傾げた。その糸目が、かすかに開いて悪魔の顔をじっと見つめる。
「何かお話されていましたか?」
「な、何も!? 何も話してねぇぞ! なぁ人間!?」
「ああ、何も。ただの独り言だよ」
俺と悪魔が示し合わせたように即答すると、天使は「…………?」と怪しむように細めた目を二人へ向けた。
特に悪魔の反応は露骨すぎた。顔を真っ赤にしたまま明後日の方向を向き、口笛を吹こうとして「フスフス」と虚しい空気を漏らしている。隠し事が下手すぎるだろ。
「……ふむ。まあいいでしょう」
天使はそれ以上追及せず、いつもの神々しい笑顔に戻ると、悪魔の背後にすっと回り込んだ。
「さあ悪魔さん、お留守番ご苦労様でした。天界から美味しそうなお菓子をもらってきましたよ。一緒に食べましょうね」
「っ……! 触るなバカ! お菓子くらい一人で食えるわ!」
天使の手を払いのけようとする悪魔だが、その動きはどこか弱々しい。
天使はそんな悪魔の態度をいつもの「ツンデレ」と受け取ったのか、満足そうに悪魔の肩を抱き寄せ、脳内の彼らの空間へと消えていった。
残された俺は、静かになった部屋でパソコンの画面を見つめ直した。
ショッピングカートに入ったままの、高額な限定ヘッドホン。
「……はぁ」
俺は購入ボタンを押すのをやめ、ウィンドウを静かに閉じた。
お金を使いすぎて生活が苦しくなるのも嫌だし、何より──今の生々しい恋愛相談を聞かされたせいで、物欲が綺麗に吹き飛んでしまったのだ。
「……面倒くせぇカップルだな、ほんと」
俺はベッドにバタリと倒れ込み、天井を見上げた。
あんなに素直になれなくて不安を抱えている悪魔と、あまりにも余裕ぶっていて本心が伝わりにくい天使。
互いに好きすぎるが故のすれ違い。
これから先、あのふたりの関係がどうなっていくのか。
俺の脳内は、まだまだ平和とは程遠いようだった。




