八話 春の訪れ
厳しいテスト期間を乗り越え、キャンパスには解放的な空気が満ちていた。
講義が終わった後の大教室で、俺はノートを鞄に押し込みながら、隣の席に座る女子に声をかけた。
「白石さん、借りてたノート、見やすくて助かったよ。ありがとう」
白石さんは、同じ学部の友人だ。柔らかい栗色の髪と親しみやすい笑顔が印象的な女の子で、実は密かに気になっている相手でもある。
「ううん、気にしないで! テスト勉強の時、いろいろ教えてもらったお返しだし」
白石さんはふふっと微笑むと、少し首をかしげて俺を見つめた。
「ねえ、この後って時間ある? もしよかったら、駅前にできた新しいカフェ、一緒に行かない? お礼にご馳走するよ」
「え……?」
思わぬお誘いに、俺の心臓が大きくドクンと跳ね上がった。
これは……いわゆる、デートのお誘いというやつでは!?
「あ、無理なら全然いいんだけど──」
「行きます! あ、いや、行く! 喜んで!」
食い気味に返事をすると、白石さんは「よかった!」と嬉しそうに目を細めた。
──ついに、俺の人生にも春が訪れようとしている。
そう歓喜した瞬間、俺の脳内に電撃が走った。
「主人公さん! 千載一遇のチャンスです!」
純白の光と共に現れたのは天使。珍しく目がしっかり開いており、真剣そのものの表情だ。
「ここで男を見せるのです! スマートに支払いを済ませ、車道側を歩き、彼女の心を射止めるのです!」
「待て待て待て! 知った風な口きいてんじゃねぇぞバカ天使!」
黒いモヤと共に躍り出た悪魔も、いつになく熱い眼光を放っている。
「柄にもなくスマートぶろうとしたってボロが出るだけだ! 日頃のダサいお前らしく、泥臭く飾らずに行け! その方がギャップで落ちるんだよ!」
「お、お前ら……?」
俺は思わず目を丸くした。
いつもなら自分たちのプレイやノロケに終始している二人が、初めてまともに「善の心(誠実さ)」と「悪の心(欲望・本能)」として俺の恋愛を応援し、仕事をしている……!
「よし、二人とも……頼むぞ!」
脳内の強力なバックアップを得て、俺と白石さんは駅前のオシャレなカフェへと向かった。
***
カフェの店内は、落ち着いた照明とジャズが流れる大人っぽい雰囲気だった。
テーブルを挟んで白石さんと向かい合い、限定のカフェラテとケーキを注文する。
「ここ、ずっと来てみたかったんだよね。付き合ってくれてありがとう」
「いや、俺の方こそ。白石さんと来られて嬉しいよ」
(良し! 自然な会話だ!)
俺が心の中でガッツポーズを決めていると、脳内のアドバイザーたちが動いた。
「素晴らしいスタートです、ご主人! ここで追撃です! 『今日の服、すごく似合ってるね』と褒めるのです! 誠実な褒め言葉は女性の心を開く鍵ですよ!」
「甘ぇな天使! そんな定型文じゃ響かねぇ! もっとぐいっと距離を詰めろ! 『一口食べる?』って自分のケーキを差し出せ! 間接キスを意識させて動揺を誘うんだよ!」
(どっちの意見も一理あるな……!)
俺は天使の提案を採用しつつ、自然に会話を繋ぐことにした。
「あ、そういえば白石さん、今日のブラウスすごく可愛いね。雰囲気に合ってる」
「えっ……本当? ふふ、嬉しい。実は今日、ちょっと気合入れて選んだんだ」
白石さんが少し照れたように微笑み、頬を染める。
効果はバツグンだ! 脳内の二人のアドバイスが的確すぎて怖い!
「見ましたか悪魔さん! 僕の言った通りです! 素直な賛辞こそが至高なのです!」
「チッ、まあ今回は譲ってやるよ。……でもよ、照れた顔を褒められてちょっと耳まで赤くする感じ……なんか既視感あんな」
「おや、気づきましたか?」
……ん?
俺が次の会話を探していると、脳内の雰囲気が怪しくなり始めた。
「そうなんですよ。昔、僕たちがまだ出会って間もない頃……初めて僕が貴方を手酷く追いつめた時も、貴方はそんな風に顔を真っ赤にして僕を睨みつけていましたよね」
「〜〜〜〜ッ!? な、なんで今その話が出てくんだよバカ天使!!」
(おい、雲行きが怪しいぞ)
俺は心の中で焦り始めたが、二人の脱線は止まらない。
「懐かしいですね。あの頃の貴方は今以上に威勢が良くて、『天界の奴らなんて全員叩きのめしてやる』と息巻いていたのに、僕に羽を押さえつけられただけで泣きそうな顔をして……」
「言うな! 思い出すだけで恥ずかしいんだよ! あの時お前、笑顔で『可愛い悪魔さんですね』とか言いながら服の中に手ぇ突っ込んできただろ!!」
「ふふ、だって本当に愛らしかったのですから。あの初々しい貴方を思い出すと、今でも胸が熱くなります」
「黙れ! 話すな! 今は人間の恋愛のサポート中だろ!!」
脳内で繰り広げられる、初々しい馴れ初めトークと甘酸っぱいノロケ。
ダイレクトに響く二人の会話のせいで、俺の頭の中は「天使と悪魔の昔のイチャつき」で満たされていく。
「……あの、田中くん?」
「はっ!?」
白石さんの声で、俺は現実へと引き戻された。
しまった、脳内のノロケに気を取られて、俺は白石さんの前で数秒間フリーズしていたらしい。
「あ、ごめん! ちょっと考え事してて……!」
「ううん、大丈夫。……あのね、私、ずっと主人公くんとこうやってゆっくり話してみたかったんだ」
白石さんがカップを両手で包み込みながら、少し上目遣いで俺を見つめる。
店内の雰囲気が、一気にロマンチックなそれへと変わった。
「テストの時もね、主人公くんがすごく真面目で、でも優しく教えてくれるところ……すごく良いなって思ってて」
「白石さん……」
完全に勝機だ。ここで男を見せなければ、一生後悔する!
助けてくれ天使! 悪魔! ここで決め手となる最高のセリフを教えてくれ!!
俺が藁にもすがる思いで脳内に呼びかけると。
「んっ……ふふ、悪魔ちゃん、そんなに暴れると……」
「暴れてねぇ! お前がヘンなとこ触るから……あ……っ」
「可愛いですね。あの頃も、今も、貴方はずっと僕の愛しい悪魔ちゃんです」
「〜〜〜っ! だ、抱きつくな……今はダメだって……っ!」
(駄目だこいつら完全に自分の世界に入ってて話聞いてねぇ!!)
頼みの綱だった脳内の二人は、昔の思い出話からスイッチが入ってしまい、完全に二人っきりの濃厚なイチャつきモードへと突入していた。
(クソッ……! もういい、自分でやる!!)
俺は二人への頼みを諦め、腹を括った。
自分の言葉で、自分の気持ちを伝えるしかない!
「白石さん!」
「は、はい!」
俺が突然身を乗り出したので、白石さんが驚いたように瞬きをする。
「俺も……白石さんと話せてすごく嬉しい! 白石さんは明るくて、優しくて……一緒にいるとすごく楽しくて、もっと白石さんのこと知りたいって思ってたんだ!」
飾らない、泥臭い、俺自身の本音。
天使のスマートさも、悪魔のテクニックもない言葉だったが、白石さんは一瞬目を見開いた後、顔を真っ赤にしてパッと花が咲いたような笑顔を見せた。
「……ほんと? 嬉しいな。……じゃあ、今度は私から誘ってもいい?」
「もちろん! あ、よかったら……連絡先、交換しよう!」
「うん! ぜひ交換しよ!」
お互いにスマートフォンを取り出し、LINEの連絡先を交換する。
画面に「友達追加」の文字が表示された瞬間、俺の胸は弾けんばかりの喜びに包まれた。
一人で頑張った! 俺は自分の力で春を掴み取ったんだ!!
***
夕方、白石さんと駅で解散し、ホクホク顔で家路につく俺。
「ふぅ……最高のカフェデートだったな」
余韻に浸りながら呟くと、脳内からようやく二人が戻ってきた。
「おや、ご主人。なんだかとても良い顔をしていますね」
「おい人間、あの後どうなったんだ? なんか進展あったのか?」
天使と悪魔が、何事もなかったかのようにすまし顔で現れる。
悪魔の髪が少し乱れており、首元にうっすら朱が差しているのは見なかったことにしてやろう。
「お前らがノロケに没頭して放置したおかげでな、自力で連絡先交換まで漕ぎ着けたよ!」
「おお! やりましたねご主人!」
「なんだ、やればできるじゃねぇか! 流石俺たちの人間だ!」
「お前らが言うな!!」
思わず空に向かってツッコミを入れる。
結局、肝心なところで全く役に立たなかった二人だが、まあ、終わり良ければ全て良しだ。
「よし、今度は俺からどこかに誘ってみるか……」
スマホの画面に並ぶ白石さんのアイコンを見つめながら、俺はニヤけそうになる口元を必死で押さえた。
脳内の天使と悪魔は、相変わらず「あの頃の悪魔ちゃんは〜」「うるせぇ言うな!」と二人だけの甘い世界で揉めている。
うるさくて、アテにならなくて、困った奴ら。
でも、この賑やかな脳内と一緒に、俺の現実も少しずつ動き始めているようだった。




