七話 サイレントイチャイチャ
目の前に広がるのは、びっしりと専門用語で埋め尽くされた大学の教科書とノート。
時計の針はすでに深夜二時を回っている。
「やばい……マジでやばい……!」
俺は頭を抱え、必死でシャープペンシルを走らせていた。
明日は期末テスト最終日。そしてこれから挑むのは、教授の気まぐれで単位取得率が毎年一桁台という鬼門科目『現代社会構造論』だ。この単位を落とせば、即座に留年の二文字が現実味を帯びてくる。
「集中しろ俺……! ここを乗り越えれば夏休みだ……!」
己を鼓舞し、教科書の重要箇所に蛍光ペンを引こうとした、その時だった。
──……んっ。
脳裏に、かすかな「声」が届いた。
風の音でも、耳鳴りでもない。俺の頭の中、脳髄の奥底から直接響いてくるような、やけに湿り気を帯びた吐息。
「……え?」
ペンを止め、まばたきをする。
すると、いつものように脳内に天使と悪魔が姿を現した。……のだが、今日のふたりは様子が違っていた。
いつもなら「勉強は誘惑を断ち切って効率的に!」やら「いや一晩中遊び明かそうぜ!」やら賑やかに自己主張してくるはずの二人が、なぜか俺の脳内の隅っこで、コソコソと身を寄せ合っている。
「しっ……静かにしてください、悪魔さん。ご主人は今、人生のかかった大事なテスト勉強中なのですから」
「わ、分かってる……」
天使が人差し指を自分の唇に当て、悪魔の耳元で甘く囁いた。
どうやら彼らなりに、俺の勉強を邪魔しないよう「気を遣って」くれているらしい。
(あ、なんだ……。今日は静かにしててくれるのか。ありがたい……)
俺は胸を撫で下ろし、再びノートに目を向けた。
『社会構造における相互作用論とは──』
──……ふあ……っ……ん……。
「……ッ!?」
脳内に直接、甘く震える悪魔の漏れ声がダイレクトに響き渡った。
心臓が跳ね上がり、思わずシャープペンシルを床に落としそうになる。
恐る恐る脳内に意識を向けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
天使が悪魔を後ろから抱きすくめ、その耳元や首筋にじっくりと唇を寄せていたのだ。
悪魔は自分の口を両手で必死に覆い隠し、必死に声を殺そうと身体を震わせている。
「な……何やってんだお前ら……!?」
天使が糸目を細め、脳内で極上の微笑みを浮かべて囁き返してくる。その囁き声すら、耳元で吐息を吹きかけられているかのように生々しい。
「私たちは主人公さんの集中を妨げないよう、最大限配慮しているのです。私たちが騒ぐと勉強の邪魔でしょう? ですから今夜は『静かに』愛を育むことにしたのです」
「んっ……くぁ……バカ天使……指……動かすな……っ……!」
「ふふ、声を出すと主人公さんに迷惑がかかりますよ? ほら、我慢してください」
──じゅっ、と湿った不穏な効果音まで脳内に響く。
「配慮の方向性がトチ狂ってんだろーーーーが!!!???」
俺は心の中で絶叫した。
静かにイチャつく?? 馬鹿言え!! 声を張って喧嘩されるより、囁き声でイチャつかれる方が何倍もタチが悪い!!
脳内にダイレクトに送られてくる ASMR 級の生々しい吐息と喘ぎ声のせいで、脳のメモリーが100%持っていかれている!
「『相互作用論』……相互作用……」
「……ん……っあ……天使……そこ……ダメ……ぁ……っ」
「可愛いですね……声を殺そうとして、余計に身体が強張っていますよ……」
あかん。
集中できるわけがない。
教科書の文字がすべてエッチな暗号に見えてきた。
「おい悪魔!! お前も流されるな!! 『勉強の邪魔だろ!』って抵抗しろ!!」
「言われなくても……我慢……してっ……んく……っ!」
「ほら、無理に耐えようとするから……可憐な声が漏れてしまっていますよ。主人公さん、聞こえていますか? これが悪魔さんの最高の喘ぎ声です」
「見せつけてくんな死ねぇぇぇ!!!」
俺は頭をかき抱き、デスクに額を叩きつけた。
耳を塞いでも意味がない。音ではなく、脳の神経に直接ノイズが叩き込まれているのだから!
テスト開始まで、あとわずか六時間。
このままでは、俺の大学生活が脳内カップルの「静かなプレイ」の犠牲になって終わってしまう!
「やめろ……やめてくれ……! 頼むから他所でやれ!!」
「他所と言われても、私たちはあなたの脳内に住まう存在ですからね。ここが私たちの愛の巣なのです」
「ドヤ顔で最悪なこと言うな!!」
天使の手つきは留まることを知らず、悪魔の服の隙間へと潜り込んでいく。
悪魔は真っ赤になった顔を天使の胸元に埋め、小さく「……んぅ」と甘えた声を漏らした。
脳内環境が甘すぎる。もはや糖度過多で脳細胞が溶けそうだ。
「分かった……分かったから!!」
俺は血走った目で立ち上がり、シャープペンシルを強く握りしめた。
「お前らが静かにプレイを続けるなら……俺はもう、超絶ハイスピードでこの教科書を全部暗記してやる!! 脳の記憶領域を勉強で100%埋め尽くして、お前らの声を物理的にシャットアウトしてやるよ!!」
「ほう……やれるものなら、やってごらんなさい」
天使が挑戦的な笑みを浮かべ、悪魔の腰をさらに強く引き寄せた。
「っ……ぁあん……っ!?」
脳内に響く最大の甘い悲鳴!
「うおおおおおおおおお!!!!! 社会構造論とは!! 個人と社会の相互的な影響関係を解明する学問でありーーーッ!!!!」
俺は半ば狂気にとらわれながら、教科書をめくり、ノートに狂ったように文字を書き殴った。
脳内で聞こえる「んっ……」「ふあ……」「ダメ……っ」という生々しい吐息の波。それを圧倒する勢いで、頭の中に専門用語を叩き込んでいく!
『機能主義!』『象徴的相互作用論!』『エスノメソドロジー!』
「天使お前マジで後で殺す……っ! んあ……っ!」
「いい顔です、悪魔さん……もっと僕に溺れてください……」
『社会階層!』『文化資本!』『ジェンダー論!』
欲望と正論、そして過剰な甘みが渦巻く脳内で、俺と教科書の壮絶な戦いが繰り広げられた。
***
翌朝。
「……終劇」
テスト会場の教室で、俺は静かにシャープペンシルを置いた。
目の前のテスト用紙は、答案でびっしりと埋め尽くされている。手応えは……完璧だ。極限状態の集中力によって、奇跡的に教科書一冊分を丸暗記することに成功したのだ。
テスト終了のチャイムが鳴り響く。
「はぁ……はぁ……勝った……俺は勝ったぞ……」
限界を迎えた俺は、そのまま机に突っ伏した。
疲労骨折しそうなほど脳みそが疲れている。
すると、脳内でふわりと光が揺れた。
「お疲れ様です、ご主人。無事にテストを乗り切れたようですね」
満足そうに現れた天使。その腕の中には、すっかり体力を使い果たしてぐったりと眠りこくっている悪魔が抱えられていた。悪魔の首元には、バッチリと新しい赤い痕が刻まれている。
「お前……最初から俺を追い詰めて、火事場の馬鹿力を出させる計算だったのか……?」
「ふふ、何のことでしょう? 僕はただ、悪魔さんと静かに愛を育んでいただけですよ」
天使は爽やかな糸目スマイルでシラを切った。絶対に嘘だ。こいつは俺の集中力を極限まで高める副産物として、ちゃっかり自分の欲望も満たしていただけに違いない。
「……まあいいや。単位は取れそうだし……」
俺は力なく息を吐き、瞼を閉じた。
「とりあえず……俺は寝る。お前らも……静かに寝ろよ……」
「ええ、ゆっくり休んでください。……ほら、悪魔さんも『お疲れ様』と言っていますよ」
天使の腕の中で、悪魔が「……ん……う……」と小さく寝返りを打った。
こうして、俺の単位は守られた。
脳内のカップルが「静かに」イチャつくという、史上最悪の誘惑の罠を乗り越えて。




