十話 昇進
いつもと変わらない、平和な日の午後だった。
大学の講義を終え、自宅のアパートでまったりと過ごしていた俺の脳内で、唐突に空間が歪んだ。
「──失礼」
神々しい光の粒と共に現れたのは、天界からの使者と思われる小さな羽の生えた使い魔だった。使者から一通の金色の書状を受け取った天使は、糸目をわずかに開いて驚いたような顔を見せる。
「神からの呼び出し……ですか」
「え、神様から? なんか悪いことでもしたのか?」
俺が尋ねると、天使はすぐにいつもの微笑みに戻り、首を振った。
「いいえ、定期的な業務報告の補足かと。すぐ戻りますので、ご主人さんも悪魔さんも、少し待っていてくださいね」
そう言い残すと、天使は一人で光の中へと消えていった。
いつもなら「僕がいない間、悪魔さんに手を出してはいけませんよ」などと軽口を叩いていくはずなのだが、今日はどこか静かだった。
***
天界──荘厳な神殿の奥座敷。
神の座の前にひれ伏す天使に、重厚な声が降り注ぐ。
『──長年の誠実な務め、実に見事である。よって汝を【上級天使】へと昇格させる』
「……! 私が、上級天使に……ですか」
天使は思わず息をのんだ。
上級天使への昇進。それは全天使の憧れであり、名誉ある地位だ。何より、与えられる俸給(給料)や待遇は現在の比ではない。
天使の頭に、浮かぶ顔があった。
天界で身寄りのない自分を拾い、実の孫のように愛し、育ててくれた高齢の双子天使──自分にとっての親であり、祖父母のような存在だ。
近年は老いた身体を押して天界の農作業で細々と暮らしている二人を、いつか自分の力で楽にさせてやりたい。ずっとそう願っていた。
(これで……おじい様とおばあ様を天界の上層区へ引き取り、何不自由ない暮らしをさせてあげられる……!)
胸を熱くする天使に、神の声が淡々と続けられた。
『ただし──昇進に伴い、担当する人間の管轄が変わる。当然、現在共同で管理しているあの【悪魔】との契約も打ち切りだ』
「っ……!?」
天使の思考が、ピタリと停止した。
『汝は新たな上級人間の担当となり、悪魔とも完全に別行動となる。……どうした? 何か不服でも立つか?』
脳裏に過るのは、あの不器用で、ツンデレで、けれど愛おしくてたまらない悪魔の顔だった。
一緒に過ごした日々。脳内での下らない喧嘩。甘い時間。
離れる? あの悪魔さんと? 自分が彼の側を離れるなど──
(……何を考えているのですか、僕は)
天使は、ハッと正気に戻ったように自分を戒めた。
自分は『天使』だ。
欲望や愛着に溺れ、正義や義務を蔑ろにするなど、天使のすることではない。
何より、育ててくれた祖父母への恩返しという『正しい善』を捨ててまで、己の個人的な執着を優先するなど──あってはならない。
自分の心の奥底に芽生えた「離れたくない」という強いワガママを、天使は冷徹なまでの理性に押し込め、静かに深々と頭を下げた。
「……不服など、ございません。ありがたく、お受けいたします」
***
「ただいま戻りました、ご主人」
アパートの部屋に、天使が戻ってきた。
いつも通りの神々しい微笑。いつもの穏やかな佇まい。
だが──俺は、微かな違和感を覚えた。
うまく言えないが、何かが「白い」。いつものドSな毒気や、悪魔に向けられるねっとりとした過剰な愛の熱量が消え、まるで精巧に作られた人形のような無機質さを感じさせたのだ。
その違和感に、一番過敏に反応したのは右肩の上の悪魔だった。
「おい」
悪魔は真っ黒な翼を逆立て、天使の前に降り立った。
「なんだよ、今の呼び出し。神様からだろ? 何言われたんだ?」
「ふふ、大したことではありませんよ。前回の報告書の書式について、少し注意を受けただけです」
「……嘘つけ」
悪魔の真紅の瞳が、鋭く天使を射抜く。
「お前、隠し事してんだろ。目の奥が笑ってねぇぞ」
「まあ、酷い言い様ですね。僕はいつだって悪魔さんに対して誠実ですよ?」
天使はくすりと笑い、ひょいと悪魔の頭を撫でようとした。
いつもなら「触るなバカ!」と言いつつも受け入れる悪魔が、今日に限っては激しくその手を振り払った。
パシッ、と乾いた音が部屋に響く。
「……触るな」
「……悪魔さん?」
「誤魔化すなっつってんだよ。……いいよ、言いたくねぇなら聞かねぇ」
悪魔は苦しそうに顔を歪めると、逃げるように黒いモヤとなって俺の脳内へ消えてしまった。
残された天使は、振り払われた自分の手口を数秒間じっと見つめていたが、すぐにいつもの笑みを貼り付けた。
「困った子ですね。……ではご主人、僕も少し休憩させていただきます」
そう言って、天使も脳内へと姿を消した。
***
その日の夜。
日付が変わる頃、俺は布団に入ったものの、昼間の重苦しい空気が気になって眠れずにいた。
ぽつん。
静まり返った部屋で、悪魔だけが俺の枕元に姿を現した。
天使を起こさないよう、気配を殺している。
「……起きてんのか、人間」
「……ああ。どうした?」
俺が囁き返すと、悪魔は膝を抱えて、ぽつりと呟いた。
「……あいつ、俺に何か隠してる」
その声は今にも泣き出しそうなほど小さく、震えていた。
前に、俺に漏らした言葉が頭をよぎる。
──『天使として悪魔を管理しているだけなんじゃないか』
──『本当は愛されてる自信がねぇんだ』
あの時に悪魔が抱いていた不安が、天使の不自然な態度によって、最悪の形で裏付けられようとしていた。
「昼間のあいつの顔……昔、俺を天界の規律に従って捕獲しに来た時の『天使の顔』と同じだった」
「天使の顔……?」
「なんの情も交えず、正論と義務だけで動く時の……冷たい天使の顔だ。あいつ、俺のことなんて……もうどうでも良くなったのかもしれない」
「そんなわけないだろ」と口から出かかったが、昼間の天使の「不自然な白さ」を思い出し、言葉が詰まった。
天使は間違いなく、何か重大な決断をした。
そしてその決断は、悪魔との関係を断ち切るものなのかもしれない。
「……どうせ俺なんて、ただの悪魔だしな」
悪魔は自嘲するように小さく笑うと、ぎゅっと目を瞑った。
「……最初から、期待なんてしなきゃよかったんだ」
そう呟く悪魔の横顔は、今にも消えてしまいそうなほど儚かった。
脳内で繰り広げられていた、バカバカしくも愛おしかったノロケと喧嘩の日々。
それが、天使の「正しさ」と悪魔の「諦め」によって、静かに壊れようとしていた。
俺は何も言えないまま、ただ天井を見つめることしかできなかった。




