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十一話 最後の夜

 朝、目を覚ました瞬間から、部屋の空気はどこか妙だった。

 

「ご主人、おはようございます。さあ、今日は七時に起きると決めていたはずですよ。二度寝は厳禁です」

 

 天使が眩い光と共に現れ、いつも以上の手際でカーテンをシャッと開ける。差し込む朝日が目に染みた。

 

「……うう、まだ眠い……」

「ダメです。規則正しい生活こそが健全な精神を創るのです。さあ、まずは部屋の掃除から始めましょう。足元に散らかった漫画本を片付けて、掃除機をかけますよ。それから朝食はパンだけでなく、しっかりと野菜とプロテインも摂ってください」

 

 矢継ぎ早に投げかけられる指示。

 普段から俺の生活を正そうとする天使だが、今日のそれはどこか切迫していた。まるで「自分が教えられる全ての正しい生活習慣」を、今日一日で俺の身体に叩き込もうとしているかのように。

 そして──もう一人の住人は、驚くほど静かだった。

 

「……」

 

 右肩の上に浮かぶ悪魔は、ベッドの端に腰掛けたまま、膝を抱えてじっと床を見つめている。

 いつもなら「朝からうるせぇぞバカ天使! 二度寝最高! 昼まで寝てろ人間!」と割り込んでくるはずなのに、一言も発しない。

 

 昼過ぎ、部屋の掃除を終えて遅めの昼食を食べている時も、悪魔の静寂は続いていた。

 

「……お前、今日どうした?」

 

 我慢できなくなった俺が低声で尋ねると、悪魔はピクリと肩を揺らし、目を合わせないままぽつりと答えた。

 

「……別に。何もねぇよ」

「悪魔さん、ご飯に集中しないと食べこぼしますよ」

 

 天使がそっと悪魔の口元にティッシュを差し出す。悪魔はその手を拒むこともせず、ただ黙って身を引いた。

 喧嘩もなければ、誘惑もない。

 二人の間に横たわる静けさは、嵐の前の静けさというよりは、すべての熱が奪われたあとの荒野のようだった。

 

***

 

 夜。

 重苦しい雰囲気のまま時は過ぎ、俺はベッドに入った。

 連日の緊張とストレスからか、急速に意識が遠のき、俺は深い眠りへと落ちていった。

 ──だが、俺の意識が完全に落ちたその直後。

 静まり返った暗闇の中で、二人の気配が俺の脳内空間へと立ち上った。

 

「ご主人は……眠りましたね」

 

 天使が小さく息を吐き、静かに振り返る。

 その視線の先には、真っ黒な羽を羽ばたかせ、ゆっくりと浮かび上がる悪魔の姿があった。

 月明かりだけが差す脳内空間で、悪魔の真紅の瞳が冷たく、そして激しく揺れていた。

 

「……おい」

 

 悪魔の声は低く、掠れていた。

 

「……明日から、いなくなるって本当か?」

 

 静寂が落ちる。

 天使は糸目を閉じたまま、何も答えない。穏やかな微笑みすら浮かべず、ただ唇を強く結んでいた。

 

「答えろよ!!」

 

 悪魔の怒号が響いた。

 叫ぶ悪魔の目からは、今にも涙が溢れ出しそうだった。

 

「天界の使者が来た時から怪しいと思ってたんだよ! お前、昇進するんだろ!? 上級天使になって、担当替えになって……俺と離れるんだろ!?」

「……どこでそれを」

「聞こえたんだよ! お前が一人で天界の書状見て溜息ついてる時のつぶやきがよぉ!」

 

 悪魔は自分の胸を強くかきむしるように握りしめた。

 

「なんで言わねぇんだよ……! 明日でお別れですって、なんで笑って言わねぇんだよ! いつもみたいに上から目線で『僕がいなくなったら寂しいでしょう』って言ってみせろよ!!」

「……言えるわけがないでしょう」

 

 天使がぽつりと漏らした。

 その声には、いつもの余裕やドSな気配は微塵もなかった。

「言ったら……貴方は泣くではありませんか。怒って、暴れて、僕を引き留めようとするではありませんか。そんな姿を見せられたら……僕だって……!」

 

 天使は言葉を呑み込み、顔を背けた。

 だが、悪魔は許さなかった。一歩踏み込み、天使の白い胸元を力任せに掴み引き寄せる。

 

「俺より仕事を選ぶのか!?」

 

 直球すぎる、なりふり構わない問いかけ。

 天使の糸目が大きく開かれた。真紅の瞳と、澄み渡る蒼い瞳が至近距離でぶつかり合う。

 

「俺と一緒にいることより……天界での名誉や、仕事の方が大事なのかよ!? 答えてみろよ天使!!」

 

 悪魔の叫びは、悲鳴に近かった。

 ずっと抱えていた「管理されているだけ」「自分だけが本気」という不安。それが最悪の形で現実になろうとしていることへの、絶望の叫びだった。

 天使の胸が激しく上下する。

 いつも完璧で、感情を制し、正論と義務で生きてきた天使の顔が、見たこともないほど歪んだ。

 

「……そういう言い方は、ずるいですよ」

 

 天使の声が、かすかに震えていた。

 

「ずるい……? 何がずるいんだよ!」

「僕だって……! 僕だって貴方と離れたくなんてないに決まっているでしょう!!」

 

 天使が、初めて感情を爆発させて叫んだ。

 

「貴方と一緒にいる時間が、どれほど愛おしいか! 貴方の我が儘を聞き、貴方の怒った顔を愛で、貴方を抱きしめる瞬間が、僕の人生でどれほどかけがえのないものか!! 貴方に言われなくたって……僕が一番分かっている!!」

 

「だったら──!!」

「ですが! 僕には……天界で僕の帰りを待つ祖父母がいるのです!!」

 

 天使の瞳から、一筋の透明な雫が頬を伝ってこぼれ落ちた。

 

「僕を育ててくれた二人を楽にさせてあげることは……僕の使命であり、絶対の善なのです! 己の『悪魔さんと一緒にいたい』という個人的な欲望のために、その義務を捨てることなど……天使である僕にできるわけがないでしょう!!」

 

 天使の叫びが、脳内空間に虚しく響き渡る。

 悪魔の手から力が抜けた。

 掴んでいた胸元から手が離れ、だらりと落ちる。

 

「……そうかよ」

 

 悪魔は力なく笑った。

 怒りも、激情も、すべてが氷溶するように消えていき、あとに残ったのは圧倒的な諦めだけだった。

 

「やっぱり……お前は『正しい天使』なんだな」

 

 悪魔は天使から一歩、退いた。

 

「俺みたいな悪魔のワガママより……正義と義務を選ぶ。それがお前だ。……分かってたよ。最初から、分かってたんだ」

 

 そう呟くと、悪魔は背を向けた。

 漆黒の翼で己の身体を包み込むように丸め、暗闇の奥へと消えていく。

 

「悪魔さん……!」

 

 伸ばしかけた天使の手は、空を切った。

 天使はその手を静かに握りしめ、ぽつんと暗闇の中に立ち尽くした。

 明日が来れば、すべてが終わる。

 正しい選択をしたはずの天使の胸には、ぽっかりと黒く巨大な穴が空いていた。

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