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十二話 善も悪もない

 翌朝、目を覚ました時、世界は気味が悪いほど静かだった。

 カーテンの隙間から眩しい朝日が差し込んでいる。いつもなら「さあ起きましょう!」と天使がカーテンをシャッと開け、「うるせぇぞバカ天使!」と悪魔が布団に潜り込むような、賑やかな朝の儀式があるはずだった。

 しかし、何もない。

 脳内はどこまでも透明で、無音だった。

 

「……そっか。今日なんだな」

 

 俺は起き上がり、静まり返った部屋で見回した。

 昨夜の激しいぶつかり合いの末、二人は完全に沈黙してしまったらしい。天界への引き継ぎなのか、最後の準備なのかは分からない。ただ、俺の頭の中に二人の気配は感じられなかった。

 

「……ま、静かでいいじゃん。元通りの一人暮らしに戻っただけだ」

 

 俺はつぶやき、一人で顔を洗い、大学へ行く準備を始めた。

 

***

 

 その夜のことだった。

 時計の針は深夜一点を回っていた。

 小腹が減った俺は、キッチンからカップ麺を取り出し、お湯を注いでテーブルに置いた。

 三分が経過し、フタを剥がす。湯気と共に立ち上るジャンクな醤油と油脂の香りが、夜の部屋に広がる。

 

「……いただきます」

 

 箸を割り、麺をすくう。

 ──いつもの俺なら、ここで脳内が大惨事になるはずだった。

 

『ご主人! こんな夜中にカップ麺など悪魔の所業です! 今すぐ箸を置き、温かい白湯を飲んで寝なさい!』

『ハッ! かまうか! 夜食のカップ麺こそ至高だろ! スープまで全部飲み干して汁まで味わい尽くせ!』

 

 そんな二人の怒号と押し付け合いが響き渡るはずの空間。

 だが──何も聞こえない。

 「やめろ」という善の制止も、「食べちまえ」という悪の誘惑も、どちらも聞こえない。

 ただ、換気扇の回るブーンという低い音だけが、虚しく部屋に響いていた。

 

「……っ」

 

 俺は口に運んだ麺を、ゆっくりと噛み砕いて飲み込んだ。

 いつもなら背徳感と満足感、そして二人のうるささに苦笑しながら食べるはずの味が、驚くほど無味無臭に感じられた。

 罪悪感も、爽快感もない。

 『夜中にカップ麺を食べる』という、ただそれだけの事実がそこにあるだけだった。

 

「……美味しくねぇな」

 

 俺は箸を置き、スープを残したままカップ麺のフタを閉じた。

 

***

 

 そこから、俺の生活に奇妙で不気味な変化が訪れた。

 二人が沈黙してからというもの、俺の中には『やるべき』という正論も、『やりたい』という欲望も、どちらの声も存在しなくなった。

 それがどれほど恐ろしいことか、俺は次第に痛感することになる。

 翌日、大学の講義室。

 教授が「次回の授業までに提出するレポート課題」を発表した。

 手元のノートを見つめながら、俺の思考がピタリと停止する。

 今夜、帰ってすぐにレポートをやるべきだろうか。

 それとも、久しぶりに羽を伸ばしてゲームでもして遊ぶべきだろうか。

 

(……どっちだ?)

 

 以前なら、天使が『今日中に終わらせてスッキリしましょう!』と促し、悪魔が『バカ言え! 新作ゲームのイベントが今日までだぞ!』と引っ張った。俺は二人の喧嘩に板挟みになりながら、「じゃあ一時間だけゲームして、そのあとレポートやるよ!」と落としどころを見つけていた。

 だが、今は誰も何も言わない。

 やりたいことも、やるべきことも、すべてが平坦なグレーの霧の中に没していく。

 自分で判断しなければならない。

 完全に、自分ひとりの意思で。

 

(……ゲームをして、もし単位を落としたら? でも、今すぐレポートを書いて、損した気分になったら?)

 

 急激に、足元が崩れ去るような恐怖が襲いかかってきた。

 正解が分からない。

 どっちを選んでも、自分が間違っているような気がして動けない。

 

 結局、俺は講義が終わった後も教室にポツンと残り、ノートを開いたまま一時間も固まっていた。

 放課後、白石さんからLINEが届いた。

 

『今週末、もしよかったら前に話してた映画見に行かない?』

 

 画面を見つめたまま、俺の指先が凍りつく。

 行くべきか。断るべきか。

 

 『すんなりOKしてカッコつけるな! ちょっと焦らせろ!』という悪魔の余計なアドバイスも、『誠意を持って即座に返信しなさい!』という天使の正論もない。

 既読をつけたまま、返信の文面が作れない。

 「楽しみ!」と打っては消し、「ごめん」と打っては消す。

 自分の感情が、どこにあるのか分からなくなっていた。

 

 夜の街を、トボトボと歩く。

 コンビニの前に差し掛かり、足が止まる。

 落ち葉が風に舞っていた。

 ……拾うべきか? スルーするべきか?

 空を飛ぶハトが目に入る。

 ……威嚇するべきか? 無視するべきか?

 何も決められない。

 

 何も選べない。

 自分の脳内から「善」と「悪」という極端な二つの座標軸が消え去ったことで、俺は自分がどう生きていけばいいのか、どちらへ一歩を踏み出せばいいのか、完全に方向感覚を失ってしまったのだ。

 

「……なぁ」


 誰もいない夜道で、俺は自分の頭に向かって呟いた。

 

「返事しろよ……。どっちでもいいから……なんか言えよ」

 

 応答はない。

 脳内に広がっているのは、冷たく乾いた静寂だけだった。

 公園のベンチに腰掛け、俺は頭を抱え込んだ。

 あいつらは、本当に邪魔な存在だった。

 四六時中、俺の脳内で勝手に喧嘩して、最低で生々しいノロケを聞かせてきて、俺の生活を振り回して。

 テスト勉強の邪魔をして、カフェデートの邪魔をして、挙句の果てには自分たちの恋愛相談まで持ち込んできて。

 本当に、心底、ウザい奴らだった。

 

 ──でも。


 いつだって、俺のそばにいた。

 俺が落ち込んでいる時も、悩んでいる時も、バカみたいな選択をしようとしている時も。

 あいつらは俺の脳内で、俺の人生に誰よりも真剣に口を挟み、一緒に泣いて、笑って、怒ってくれていたのだ。

 俺の「善」も「悪」も、「迷い」も「決断」も。

 全部、あの二人がいたからこそ成り立っていたんだ。

 

「……冗談じゃねぇぞ」

 

 膝の上で、両手を強く握りしめる。

 天使は「正しい義務」のために、自分の「欲望」を殺して昇進を受け入れた。

 悪魔は「愛されていない不安」と「諦め」から、何も言わずに身を引こうとしている。

 

 ふざけるな。

 二人が自分の気持ちをごまかして、すれ違ったまま離ればなれになって。

 その結果、俺の脳内がこんな空っぽで静かな廃墟になるなんて──そんな結末、俺が絶対に認めない。

 

「自分の意思で決めろってんなら……」

 

 俺はベンチから勢いよく立ち上がった。

 濁っていた視界が、一気にクリアになっていくのを感じた。

 何も決められなかった俺が、生まれて初めて、自分の明確な「エゴ」と「意思」を持った瞬間だった。

 

「俺が決めてやるよ。二人とも、絶対に逃がさねぇ」

 

 夜空を見上げ、俺は固く誓った。

 天使の「正しさ」も、悪魔の「諦め」も、全部俺がぶち壊してやる。

 うるさくて、鬱陶しくて、最高に愛おしいあの二人を、俺の脳内に引きずり戻すために。

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