十三話 自分で選ぶということ
部屋を包む静寂が、あまりにも重く、痛い。
深夜一時。パソコンの液晶画面から放たれる青白い光だけが、暗闇の中でポツリと俺の顔を照らしていた。
画面に映し出されているのは、数日前に穴が開くほど見つめていたショッピングサイトのページだ。
カートに入ったままになっている、ずっと欲しかった限定モデルのヘッドホン。
画面をスクロールすれば、あの時と変わらない高い数字がそこにある。目玉が飛び出るような金額。これをポチれば今月の残りの生活費は極限まで削られ、もやしと豆腐だけで飢えを凌ぐ極貧生活に突入すること間違いなしの、悪魔的プライス。
「……」
俺はベッドの端に腰掛け、膝の上に肘をついて画面をじっと見つめた。
無意識に、肩のあたりの空間へ視線を送ってしまう。
左肩の空間──光の粒子と共に現れ、優雅な笑みを浮かべながら『ご主人、こんな贅沢は禁物です。将来のための貯金こそが健全な生活を創るのです』と優等生ぶった正論を叩きつけてくる糸目の天使。
右肩の空間──黒いモヤの中から飛び出し、楽しそうにニヤリと笑いながら『ハッ! 後先考えるなバカ! 欲しいもんは欲望のままにポチっちまえよ!』と勢い任せに背中を押してくる角の生えた悪魔。
だが、今は。
左肩にも、右肩にも、誰もいない。
息を吸う音すら部屋の中に虚しく響くほど、脳内は冷たく、静まり返っていた。
「……やっぱり、何も言わないんだな」
ぽつりと呟いた声が、画面の青白い光の中に吸い込まれて消える。
あいつらが姿を消してから、俺の世界からは「声」がなくなった。
何かをしようとするたびに、頭の中で巻き起こっていた泥沼の押し付け合い。善の制止と、悪の誘惑。ウザくて、鬱陶しくて、だけど賑やかで温かかったあのノイズが、綺麗さっぱり消滅してしまったのだ。
以前の俺なら、この画面を前にしてどうしていただろうか。
天使が「我慢しましょう」と言い、悪魔が「買っちまえ!」と叫ぶ。
二人が俺の脳内でドタバタと取っ組み合いの喧嘩を始め、挙句の果てには天使が悪魔を甘ったるい言葉で責め立ててASMR級のイチャつきに脱線し──俺が「どっちでもいいから静かにしろーーー!!」と半狂乱になって頭を抱える。
そして、そのカオスなノイズに耐えかねて、半ばヤケクソで「一ヶ月もやし生活になってもいい、ポチってやるよ!」と衝動買いするか、「もういい、物欲が吹き飛んだわ!」と画面を閉じるかの二択だった。
俺は、いつだってあいつらに「決めさせられて」いた。
自分の感情なのに、自分ひとりで決断を下したことなんて、一度もなかったのだ。
画面の中の購入ボタンが、暗闇の中で妖しく光っている。
(我慢するべきか……欲望に従うべきか……)
問いかけてみても、頭の中からは何の応答もない。
正解を教えてくれる天使もいなければ、背中を強引に押してくれる悪魔もいない。
胸の奥が、すーすーと冷たい風が吹き抜けるように痛んだ。
諦めてPCの電源を切るか?
……いや、違う。逃げるな。
あいつらを連れ戻すと夜空に誓ったんだ。なら、まず俺自身が、あいつらのいないこの空っぽな時間と向き合わなきゃ進めない。
「……ふぅー」
俺は深く息を吐き出すと、ゆっくりと背筋を伸ばした。
マウスを握り直し、画面のタブを一つ追加する。
開いたのは、ネット銀行の口座管理ページと、今月の収支を記録している簡易的な家計簿アプリだ。
画面を二つ並べる。
左側には、限定ヘッドホンの金額。
右側には、俺の現在の貯金額と、今月の固定費、予想される食費や雑費のリスト。
「よし……ちゃんと計算してみるか」
俺は電卓アプリを立ち上げ、数字を一つずつ打ち込んでいった。
現在の貯金額。
そこから、このヘッドホンの代金を引く。
残る数字は……うん、思っていたよりは悪くない。
次に、今月の残り日数と、生きるために必要な最低限の生活費を計算する。
家賃と光熱費は引き落とし済み。
食費は……一日あたり千円で計算すれば、もやしと豆腐だけの極貧生活になんて落とし込まなくても、十分に栄養バランスの取れた自炊ができる。
来週末に白石さんと行くかもしれない映画のチケット代と、カフェ代。それも予備費としてしっかりと計算に入れておく。
電卓のイコールボタンを押す。
表示されたのは、すべての必要経費を引いた上で、なお手元に残るわずかな余剰金の額だった。
「……いけるな」
思わず声が出た。
衝動的に欲望へ飛びつくわけでもない。
天使の正論に怯えて、自分の「欲しい」という気持ちを押し殺して諦めるわけでもない。
現実をしっかり見つめ、自分の生活を守りながら、自分の欲望を叶える方法。
その現実的な境界線を、俺は自分の頭で、自分の手で、ハッキリと弾き出したのだ。
「……買えるじゃん、俺」
画面に映る限定ヘッドホンを見つめる。
それは、ただの「欲望の対象」から、俺が自分の努力と計算によって「手に入れるにふさわしいご褒美」へと変わっていた。
ふと、胸の奥が温かくなるのを感じた。
俺は今まで、勘違いしていたのかもしれない。
天使と悪魔──あいつらは、俺の代わりに人生の「善か悪か」「正解か不正解か」を決めてくれる裁判官じゃなかったんだ。
天使が提示する「こうあるべき」という正しさ。
悪魔が提示する「こうしたい」という欲望。
あいつらはただ、俺という一人の人間の中に存在する二つの視点を、極端な形で目の前に突きつけてくれていただけだったのだ。
「正しい生活をしなさい」と叱る天使がいたからこそ、俺は自分の怠惰を反省できた。
「欲望に素直になれよ」と笑う悪魔がいたからこそ、俺は自分の本当の気持ちに気づくことができた。
二人のはちゃめちゃな対立は、俺に「お前はどうしたいんだ?」と問いかけるための、ただの『きっかけ』に過ぎなかったんだ。
あいつらに揺さぶられ、板挟みになり、悩み抜いた末に──最後に選択肢を選び、自分の足で一歩を踏み出すのは、いつだって「俺自身」でなければならなかった。
あいつらがいたから、俺は迷うことができた。
そしてあいつらがいない今、俺はその迷いを越えて、自分で決断できるくらいには成長していたんだ。
「サンキューな、二人とも」
誰もいない肩の空間に向かって、俺は小さく笑いかけた。
もう、迷いはない。
俺はマウスのカーソルを動かし、画面の中の「購入を確定する」という赤いボタンの上に重ねた。
カチッ。
静かな部屋に、マウスのクリック音がひとつ、清々しく響いた。
『ご注文ありがとうございます。商品の発送準備に入ります』
画面が注文完了のページに切り替わる。
よし。ポチったぞ。
今月の生活費は少しキュッと締まるが、もやし生活にはならない。白石さんとの映画も行けるし、ずっと欲しかったヘッドホンも手に入る。完璧な決断だ。
パソコンの画面をパタンと閉じると、部屋は再び暗闇に包まれた。
だが、さっきまでの冷たく重苦しい暗闇とは違っていた。胸の奥には、確かな自分の意思という温かい火が灯っている。
「さて……」
俺はベッドに倒れ込み、天井を見上げた。
「自分の買い物の決断は、これで完璧にできた」
自分の頭で考え、自分の意思で選ぶ覚悟はできた。
だったら、次に決めるべきことは一つしかない。
天使の「家族のための正義」も。
悪魔の「傷つくのを恐れた諦め」も。
そんなあいつらの身勝手ですれ違った理屈なんて、俺の『エゴ』で全部ぶち壊してやる。
俺の脳内には、正論で殴ってくるドSな糸目天使も、ツンデレで打たれ弱い悪魔も、両方必要なんだ。
どっちか一人でも欠けたら、俺の脳内は完成しない。
「覚悟して待ってろよ、お前ら」
静かな暗闇の中で、俺は力強く呟く。
成長した人間の「ワガママ」がどれほど手がつけられないか、あのバカカップルに思い知らせてやるために、俺はゆっくりと目を閉じた。




