五話 上司の抜き打ち視察
目覚まし時計の不快なアラームが鳴り響く。
まぶたを持ち上げると、いつもなら宙に浮いて「おはようございます」と爽やかな笑みを浮かべる天使と、欠伸をしながら「あー、よく寝た」と悪態をつく悪魔がいるはずだった。
だが、今朝は違っていた。
「…………」
「…………」
ふたりは正座をしていた。
宙に浮くでもなく、俺のベッドの脇で、ぴっちりと膝を揃えて正座している。
天使の額にはうっすらと冷や汗が浮かび、あの悪魔に至っては小刻みに震えて顔面蒼白だ。
「おい……どうしたんだよ? 朝からシリアスな空気出して」
「……しっ! 声を落としてください……!」
天使が焦ったように人差し指を口元に当てる。
「来ちゃったんだよ……『上司』が……!」
悪魔が絶望に満ちた声で囁いた。
「上司?」
「ええ。天界と魔界から、私たちの仕事ぶりを抜き打ち調査しに……『大天使』様と『大悪魔』様が視察にいらっしゃっているのです」
天使の言葉が終わるか終わらないかのうちに、部屋の空間がぐにゃりと歪んだ。
純白の眩い光と、地獄の底から這い上がるような禍々しい黒炎。二つの相反する巨大なエネルギーが同時に膨れ上がり、部屋の温度が急激に乱高下する。
「──業務報告は受けているが、現場の空気を確かめるのも我らの務めゆえな」
光の中から現れたのは、重厚な鎧を纏い、威厳に満ちた白髪の厳格そうな老紳士──大天使だった。その背後には六枚の巨大な翼が神々しく広がっている。
「ふん、下っ端どもが人間の良心をちゃんと揺さぶっているか、この目で検分してやるとしよう」
黒炎の中から現れたのは、禍々しい角を生やし、黒いレザーコートを着こなした冷酷そうな壮年の男──大悪魔だった。眼光は鋭く、生きとし生けるものを威圧する覇気が漂っている。
うわぁ……ガチなやつ来た……!
俺は心の中で悲鳴を上げた。威圧感が凄すぎて息ができない。
「おい、天使、悪魔。お前たちは天界と魔界の均衡を保つための『宿敵』であり『ビジネスパートナー』だ。私情を挟まず、厳格に任務を遂行しているな?」
大天使の重厚な声が響く。大悪魔もまた、鋭い視線を二人に向けていた。
「もし、万が一にも不適切な交友関係や……言わずもがな、天界と魔界の条約に反する『禁忌の関係』を結んでいるようなことがあれば……即座に消滅処分だ。よいな?」
「「は、はいッ!!」」
二人は揃って直立不動になり、裏返った声を上げた。
消滅処分。想像以上に重い罰だ。いつも脳内でバカなイチャつきを繰り広げている二人だが、さすがに今回は命がかかっている。
「では、日課の『葛藤の誘発』を見せてもらおうか。人間よ、何か選択に迷うことはないか?」
大悪魔に促され、俺は冷や汗をダラダラ流しながら頷いた。
「え、えーっと……じゃあ、今日提出の大学の課題。今すぐやるか、めんどくさいから後回しにしてゲームするか……」
「よし、ひと仕事しようぜ! ビジネスパートナーの天使さん」
悪魔が露骨な大芝居で声を張り上げた。
「ええ、そうですね。ビジネスパートナーの悪魔さん!」
天使もまた、ギコチナイ笑顔で応戦する。
「おい人間! 課題なんて後回しにしてゲームしようぜ! 今やっても集中できねぇぞ!」
「いけません人間さん! 課題は今すぐ終わらせるべきです! ……ですが、あまり詰め込みすぎても体に良くありませんからね。……あの、ビジネスパートナーの悪魔さん、今日の貴方の髪型、とても素敵ですね」
「えっ、さんきゅ……ってバカ! 今関係ねぇだろ!?」
「あっ……し、失礼、つい『ビジネス上の社交辞令』が出てしまいました。私としては、貴方が頑張っている姿を見ると胸が締め付けられる思いなのですが……あ、これもビジネスとしての労いです」
下手か??? 距離感のバグり方が露骨すぎるだろ!!
俺は心の中で猛烈にツッコんだ。天使の奴、命がかかっているというのに隙あらば口説こうとしている。悪魔も照れて顔を赤くしている場合じゃない。
「……ぬ?」
大天使が眉をひそめた。大悪魔の目も冷ややかに細められる。
「なんだ、その妙な距離感は。社交辞令にしては距離が近すぎないか? なぜ二人の距離が拳一つ分しか離れていない?」
「ひっ! こ、これはですね! 省スペース化です! この部屋が狭いからでして……!」
悪魔が必死に弁明するが、逆効果だった。焦った弾みに足を滑らせ、天使の胸の中に飛び込む形になってしまったのだ。
「あ……」
「あっ……」
天使は自然な動作で悪魔の腰を優しく抱き留め、悪魔は無意識に天使の胸板に手を添えて上目遣いになっている。
「「…………」」
完璧なまでの「恋人たちの体勢」だった。
「……ほう」
大悪魔の声が、地獄の底のように低くなった。
「消滅処分だな」
大天使が静かに手に持った聖剣を引き抜く。
「待ってください! 違います! これは不可抗力で──!!」
天使と悪魔が肩を抱き合って絶望に顔を歪めた、その時だった。
「──まったく、お前は相変わらず冗談のキレが悪いな、ミカエル」
大悪魔がふっと息を吐き、呆れたように大天使の肩を叩いた。
……ん? 肩を叩いた?
「何が冗談だ、ルシファー。規律は厳守せねばならんと言っただろう」
大天使──ミカエルは、聖剣を鞘に戻すと、ハァとため息をついた。
そして、信じられない行動に出た。
大天使は、大悪魔──ルシファーの腰にすっと手を回し、自分の身体へと引き寄せたのだ。
「……っ!?!?」
俺、そして天使と悪魔の三人の時が止まった。
「おい、人前だぞミカエル。少しは自重しろ」
大悪魔ルシファーが、少し頬を染めながら大天使の胸をかるく突く。
「何を言う。昨晩は『もっと強く抱きしめてくれ』とおねだりしてきたのはお前の方だろう?」
「ば、バカ者! 下っ端の前で何を言うか!」
厳格だったはずの大悪魔が、顔を真っ赤にして大天使の肩口に顔を埋めている。大天使は優しくその白髪を撫でながら、愛おしそうな目を向けていた。
「若い者たちの不器用な隠し事など、一目でわかる。なにせ……私たちが『先輩』なのだからな」
「クソッ……こんなところ見せるつもりじゃなかったのに……」
熟年夫婦のような熟練のイチャつき。放たれる甘く重苦しい空気。
大人の色気と威厳をが無駄に溢れ出ているせいで、地獄のような地獄絵図が完成していた。
「「「………………」」」
俺、天使、悪魔の三人は、完全に開いた口が塞がらなかった。
「え、えっと……大天使様……?」
天使が震える声で尋ねる。
「うむ。お前たちの処分は不問とする。……互いを高め合えるパートナーがいることは、業務の効率化にも繋がるからな。……な、ルシファー?」
「ふん……好きにしろ。今日の視察は終わりだ。帰るぞミカエル、腰が痛いんだ」
「ああ、昨晩は少し張り切りすぎてしまったからな。優しくマッサージしてあげよう」
二人は光と黒炎の中に消えていった。仲良く手を繋ぎながら。
残されたのは、静まり返った部屋と、放心状態の三人。
「…………」
「…………」
「…………」
天使と悪魔は、自分たちのイチャつきどころではないショックを受けたのか、顔を真っ青にしてその場に崩れ落ちた。
「なんか……すごいの見ちゃったね……」
俺がぽつりと呟くと、二人は力無く頷いた。
「まさか……上司同士があんな……」
「オッサンのイチャつき……胸焼けする……」
自分たちも脳内で似たようなことを繰り広げている自覚があるのか、二人は深い自己嫌悪とトラウマに苛まれているようだった。
「……とりあえず、課題やるわ」
「頑張ってください……」
こうして、大天使と大悪魔の衝撃的な秘密を知ってしまった俺たちは、かつてないほどの静寂の中で一日を過ごすのだった。




