四話 あと5分だけ
ピピピピ、ピピピピ。
無機質なアラーム音が、静まり返った早朝の部屋に響き渡る。
俺は重い瞼をうっすらと開け、枕元に転がっていたスマートフォンに手を伸ばした。画面に表示された時刻は午前七時ちょうど。
「う……あ……」
身体が鉛のように重い。全身の細胞が「起きるな、まだ休め」と大合唱している。
あと何分寝られる? 大学の講義に間に合う限界のラインはどこだ?
頭の中で高速の算数が始まる。顔を洗う時間を削り、朝食を抜き、着替えを1分で済ませれば──いける。
「……あと、五分だけ……」
悪魔の囁きのような独り言を呟き、アラームをスヌーズに設定して再び目を閉じた。
まさにその時である。
「いけません」
耳元で、聞き覚えのある爽やかな声が響いた。
目を開けると、布団のすぐ脇に純白の光を纏った糸目の天使が浮いていた。朝から無駄に顔面が整っている。
「二度寝は睡眠の質を著しく低下させます。一度起きた脳を再び休眠状態に持ち込むと『睡眠慣性』が働き、かえって強い眠気や倦怠感を引き起こすのですよ。さあ、シャキッと起きて日光を浴びましょう」
出た。天使の正論攻撃だ。
ぐうの音も出ない正論だが、今の俺にはその爽やかさが眩しすぎて苦痛でしかない。
「分かっちゃいるんだけどさぁ……身体が動かないんだよ……。おい悪魔、助けてくれ……『あと五分寝ちゃおうぜ』って背中押してくれ……」
助けを求めるように叫ぶと、天使の隣に黒いモヤが発生した。
いつもなら「ガハハ! サボっちまえよ!」と勢いよく飛び出してくるはずの悪魔だ。
だが、今日のモヤはどこか弱々しく、ゆらゆらと揺れているだけだった。
「……むにゃ……うー……」
モヤの中から現れた悪魔は、俺の期待した「悪の化身」とは程遠い姿をしていた。
漆黒の翼はだらりと垂れ下がり、いつも鋭い光を放っている真紅の瞳はトロンと半開き。なんと、大きめのダボッとしたパジャマを着込み、角の生えたフードを深々とかぶっている。
「……んあ? おい人間……もう朝か……?」
ふにゃふにゃとした口調で、悪魔は欠伸を噛み殺した。
驚くほど威厳がない。というか、めちゃくちゃ眠そうだ。
「おい悪魔、お前まさか……朝弱いのか?」
「うるせぇ……悪魔は夜行性なんだよ……朝の光とかマジで無理……消せよあの太陽……」
悪魔は目をシパシパさせながら、光を遮るように小さな手で顔を覆った。
なるほど、悪の心を管理する者とはいえ、朝の爽やかな空気と日光は天敵らしい。
俺がその無防備な姿に呆気にとられていると、隣にいた天使の雰囲気がガラリと変わった。
あ、これアカンやつだ。
天使の糸目が限界まで細くなり、その口元が怪しいほどに優しく歪む。
先ほどまで俺に向けられていた「健康指導員の顔」はどこへやら、完全に「獲物を見つけた猛獣」の顔になっていた。
「あらあら……まだ眠いのですか?」
「べ、別に眠くねぇ……おい人間、あと五分と言わず……一時間くらい寝て……ふぁぁ……遅刻しちまえよ……」
強がって俺に悪徳の提案をしようとする悪魔だったが、途中で大きな欠伸が出てしまい、言葉が立ち消える。目元には涙すら浮かんでいた。
「ふふっ、無理をしちゃダメですよ」
天使は宙からすっと舞い降りると、抵抗する間も与えずに悪魔の身体をひょいと抱き上げた。
「うわっ!? な、なにすんだバカ天使! 離せよ!」
「だめですよ、そんなにフラフラしてちゃ。ほら、こっちへいらっしゃい」
天使はベッドの隅──俺の足元あたりのシーツの上に腰を下ろすと、自分の膝の上に悪魔をちょこんと座らせた。そのまま後ろからすっぽりと包み込むように抱きしめる。
「……狭い……触るな……!」
「静かに。頭が重いでしょう? 僕の胸に預けていいですよ」
そう言うと、天使は悪魔の黒髪を指先で優しく撫で始めた。
髪を梳き、耳の後ろを撫で、首筋を優しく撫でさする。その手つきは、まるで機嫌の悪い猫を宥めるかのように洗練されていた。
「あ……う……ッ……」
最初はジタバタと暴れていた悪魔だったが、天使の心地よい体温と絶妙な撫で加減に、次第に力が抜けていく。真紅の瞳がトロンと濁り、呼吸が深くなっていった。
「気持ちいいですか?」
「くそ……っ……お前の手……無駄に温かくてムカつく……」
「素直じゃありませんね」
「……おい」
俺は布団の中から、冷ややかな視線を二人に送った。
「朝っぱらから脳内でイチャつくのやめてくれないか」
「静かにしてください主人公さん。今、悪魔ちゃんが心地よく眠りにつこうとしているのですから」
天使がシーッ、と人差し指を口元に当てる。
いや、お前さっき「二度寝は睡眠の質を低下させる」とか「シャキッと起きろ」とか言ってたよな?? 自分の彼氏には激甘か??
「んう……天使ぃ……なんか目まわりが重い……」
「はいはい、眼精疲労ですね。よしよし、目を閉じて……僕が抱っこしてあげますからね」
天使は悪魔の背中をトントンと一定のプロトコルで優しく叩き始めた。
悪魔はもう抗う術を持たないらしく、天使の白い衣装の胸元に顔を埋め、「すやすや……」と小さな寝息を立て始めた。完璧な寝落ちである。
「……ふふ、可愛いですね。朝の悪魔ちゃんはガードが緩くて最高です」
天使は悪魔の耳元に優しく口づけを落とす。
その表情は、慈愛に満ちた天使のそれというよりは、完全に愛玩動物を愛でるドSな飼い主のそれだった。
「……で、ご主人様?」
天使が、急にトーンの低い声で俺を振り返った。糸目の奥が笑っていない。
「何か文句でも?」
「いえ、何も……」
「結構です。悪魔ちゃんが起きるとかわいそうなので、あなたは静かに起きて、静かに部屋を出て行ってくださいね。音を立てたら……分かっていますね?」
静かな脅迫だった。
俺の脳内の「善の心」を司る存在が、俺に対して一番悪魔的な圧をかけてきている。
「……分かったよ。起きるよ……」
俺は深いため息をつき、静かに布団をめくった。
「あと五分だけ」の甘美な二度寝の時間は、脳内の天使が悪魔をデロデロに甘やかすためのプレイ時間へと消えて消滅したのだ。
そっとベッドから抜け出し、足音を立てないように服を着替える。
ふと振り返ると、ベッドの隅で天使が悪魔を姫抱っこするように抱きかかえ、満足げにその頬を撫で回していた。悪魔は天使の腕の中で「ん……」と気持ちよさそうに身をよじっている。
「……朝から何見せられてんだ俺は」
俺は小さく首を振り、リビングへ向かうドアを静かに閉めた。
二度寝には失敗したが、ある意味で目は完全に冴めきっていたのだった。




