二話 深夜の誘惑
深夜のテレビ番組は演者のブレーキが外れているようで、昼間には流せないような過激な発言につい鼻で笑ってしまう。
無駄に夜更かしをしてこの番組を見ることは、俺のささやかな楽しみの一つだ。
──しかし、深夜には恐ろしい誘惑がつきまとう。
ぐぅぅぅぅ……。
怪物の呻き声のような豪快な腹の音が、静まり返った部屋に響き渡った。
さっさと寝てしまえば素通りできたはずの『空腹』という名の魔物。
俺はヨロヨロと立ち上がり、台所の食品棚を漁る。そして、欲望の塊のようなプラスチック容器を掴み取った。
深夜、無性に小腹が空いた時の強い味方──カップ麺だ。
お湯を沸かそうとケトルに手を伸ばした、その時。
「いけません」
「うわぁ!?」
不意に背後から声をかけられ、跳び上がった。
振り返ると、そこには相変わらず神々しい光を纏った糸目の天使が宙に浮いていた。
「深夜に食事をするなんて、不健康が過ぎます。ましてやカップ麺など、もっての外ですよ」
「て、天使……」
「知っていますか? 深夜はエネルギー消費が著しく低下するため、糖質と脂質の塊であるカップ麺を食べると、そのまま脂肪として蓄えられます」
「うっ……」
「塩分過多による浮腫み、睡眠の質低下、ひいては生活習慣病のリスク……一時の空腹を満たすために、将来の健康を棒に振るおつもりですか?」
現実という名の刃が突き刺さる。
こうして言語化されると、食べる気が失せる。
ぐぅぅぅぅぅぅ。
「うっ……美味しそうだなぁ……」
「ダメなものはダメです。空腹など寝て仕舞えばないのと同じです。」
「で、でも……」
「でもじゃありません」
「…………」
「…………」
天使の正論パンチが容赦なさすぎる。俺のメンタルはすでにボロボロだ。
……というか。
「いや、悪魔は? こういう時こそ悪魔の出番だろ!?」
このままだと俺、脳内の天使とのレスバで完膚なきまでに叩きのめされてお湯も沸かせないんだが。
「はぁ……」
俺の問いかけに、天使は露骨に面倒くさそうなため息をついた。
「仕方ないですね……ほら、出番ですよ」
「……チッ」
重苦しい空気と共に現れた悪魔。
「仕事ですよ。シャキッとしてください」
「わぁってるよ……。おいお前、こんな奴の言うことなんて気にすんな!」
うん。
「コイツの言う通り体には悪いかもしれねぇ! でもよぉ、その罪悪感と背徳感が美味さを加速させるんだろ!? 食っちまえよ!」
「うん、うん……! そうだよな!」
悪魔の力強い後押しに頷きかけた俺だったが、どうしても無視できない違和感に耐えかねて指をさした。
「いや、加勢してくれるのはめちゃくちゃありがたいんだけど……」
──なんで首輪と手錠ついてんの?
「……っ! うるせぇ!!」
悪魔は顔を真っ赤にして叫ぶが、手錠のチェーンがジャラッと虚しく鳴る。首輪からは細い鎖が伸びており、その端は天使が人差し指に優雅に巻きつけていた。
「あなたが深夜に突然召喚なんてするからですよ。ちょうど『お仕置き』の真っ最中だったんです」
「それは……なんか、マジでごめん……」
「で? どうするんですか? 食べるんですか?」
鎖をピンと引っ張りながら、天使が冷ややかな視線を送ってくる。完全にプレイングを邪魔されて不機嫌な顔だ。
「いや……なんかもう色々と胃が痛くなってきたから、やめとくよ……」
「懸命な判断です。……ほら、帰りますよ。まだまだ『続き』が残っていますからね」
「わかったから引っ張るな! 痛ぇんだよバカ天使!」
ギャーギャーと文句を言う悪魔の首輪の鎖をぐいぐい引っ張りながら、天使は漆黒のモヤの中へと消えていった。
残されたのは、お湯も入れられなかったカップ麺と、静まり返った深夜の部屋。
「…………」
俺はそっとカップ麺を棚に戻した。
プレイの最中に仕事をさせるのはやめよう、と心に誓いながら。
しかし、誓ったところで、空腹が消えてくれるわけではない。
「……腹減ったなぁ」
静寂が戻った台所で、俺はひとり呟く。
結局、カップ麺は諦めた。だが、脳内に刻まれたのは健康への危機感ではなく、あの2人の生々しいプレイの光景だ。
想像してしまったせいで、変な汗が出てくる。
あの手錠、どこで手に入れたんだろ……いや、天使が自分で具現化したのか?
余計なことを考えて脳のエネルギーを無駄遣いしたせいか、胃袋がひときわ大きく「ぐぅ」と鳴いた。
結局、俺は冷や水を一杯一気に飲み干し、誤魔化すように布団へ潜り込むことにした。
***
翌朝。目覚まし時計の音で目を覚ます。
胃の中は空っぽで、鏡を見るとうっすらと顔がやつれている気がした。昨晩のストレスのせいかもしれない。
「おはようございます。昨晩はよく眠れましたか?」
洗面所で歯を磨いていると、ふわりと天使が現れた。相変わらず神々しい笑みを浮かべている。
「……おかげさまでね。お前らは、あのあと満足したのかよ」
「それはそれは、とても有意義な時間を過ごせました」
糸目を細めて爽やかに微笑む天使の横から、遅れて悪魔がヌッと顔を出した。
その首元には、昨晩はなかった痛々しいキスマークがバッチリと残っている。
「……見んな」
「見てない。見たくもない」
視線を逸らして逃げるように歯磨きを再開する。
俺の良心と欲望は、今日も今日とて仲が良いみたいだった。




