一話 財布を拾った
小腹が空いた……。
セミと腹がうるさく鳴く昼下がり。俺はベッドでネットサーフィンするのをやめ、腹をさすりながらキッチンへと向かった。
「食えそうなもの……食えそうなもの……」
冷蔵庫の明かりが灯る。
料理をするのは面倒くさい。すぐに食べられる納豆でもあればいいのだが……。
俺の思いも虚しく、寒気がするほどの伽藍堂が広がっていた。
買い出しに行かないとな。
ため息をつき、冷蔵庫の戸を閉めた。
そっと顎に触れると、髭が伸びていることに気がつく。休みが続いたために剃られることなく健やかに育ったそれは、無精髭となっていた。
落胆したついでに、自分の身なりを見る。上はアニメのTシャツに、下は高校時代のジャージだ。
もう一度、深くため息をつく。髭を剃るのも、着替えるのも面倒だ。
俺はしばらく考えた末に、一つの結論に至る。
『まぁ、いっか。コンビニ行くだけだしな』
自分に言い聞かせるように、マスクを着け、パーカーを羽織った。
***
一方その頃——。
「ハッ、まずは一勝! ざまぁ見やがれ雑魚天使が!」
「この程度のことで、くだらないですね。ほら、ボサっとしてないで、追いかけますよ」
***
おにぎりに、ホットスナック、それにデザート。
けっこう買ったな。
少し重いレジ袋を提げ、自動ドアをくぐる。
「ありがとうございました」という店員の声を背に受け、家路を歩く。
そんな時だった。
──ダークグレーに舗装された道の端に、それはあった。
俺は歩みを止め、そっと拾い上げる。
誰かの財布だ。細やかな皮の香りに背伸びが感じ取れる長財布。
じっとりと、罪の味が手先から伝わり、ドクドクと鼓動が速まった。
「あら、拾っちゃいましたか」
ビクッと、肩が震え上がる。
「これは、違くて……! ただ、拾っただけで……!」
そんな弁明が空回りさせながら、慌てて辺りを見回す。
誰もいない……?
「こんにちは」
「うわぁ!?」
舞い降りた。文字通り、舞い降りた。
純白の翼をはためかせ、神々しい光と共に『ソレ』は現れた。
目を疑った。人形ほどの大きさの生き物が、紳士的に宙を舞っている。
「おっと、失礼。申し遅れました。私、あなたの『善』の心を管理させていただいている天使です」
長い茶髪を後ろで結ったイケメン。慈しみを宿した目は、絵に描いたような糸目をしている。
「て、天使!?」
狼狽え、目を白黒させる。
確かに、汚れの目立ちそうなほど真っ白な布をあたかも服のように纏っているその姿は、天使そのもだ。
「天使って、あの……? 創作でよく見る、脳内に住まっていい行いを推奨してくる……?」
「話が早くて助かります。コホン……天使として、あなたに助言させていただきます。この財布は交番に届けましょう」
天使が現れ、拾った財布を届けるように提案する。
ベタだ。あまりにもベタベタだ。
「きっと、持ち主も困っていますよ」
しかし、言っていることは最もだ。
拾った財布を持ち帰るなんて、悪人のすること。届けるに限る。
「確かに……うん。届けることにするよ」
「ちょっと待ちなぁ!!」
猛々しい声が響き渡り、天使は「はぁ……厄介なのが来ました」と眉を顰める。
「えっと……知り合い?」
「オレは悪魔。お前の『悪』の心を管理する者だ」
悪魔を名乗った生き物は親指を突き立て、自分に向ける。
天使とは打って変わって、『漢』といった顔立ちに体つき。漆黒の髪に、真紅の瞳。コウモリのような翼を荒々しく揺さぶっている。
「その財布、けっこうな額入ってるぜ? なぁ、中身抜き取っちまえよ。なぁに、心配すんな。少しならバレねぇって」
「少しなら、バレない……」
その言葉が脳に焼き付いて離れず、無意識に呪詛の如く口から漏れる。
しめたとばかりにニヤリと口角を上げ、悪魔は二の矢を放ってくる。
「お前、欲しかった服あったろ? その金あったら足しになんじゃねぇの?」
確かに、ある。今月は服を買うほどの余裕がなかったので諦めていた服が。
「いけません。交番に届けるのです。欲しいものは、自分のお金で買ってこそ意味があるでしょう?」
「ぐぬぬ……」
正義に従うか、欲望に従うか。
二者択一。天使と悪魔は睨み合う。それに呼応するように、俺の心もせめぎ合っていた。
「はぁ、埒があきませんね……そうだ。見ちゃいましょっか、この財布に残された記憶の断片。言うなれば、持ち主の情報」
「おい、卑怯だぞ!」
「見れるの?」
「まぁ、天使なので」
天使は分厚い本を取り出し、パラパラと捲る。
「ふむふむ……この財布の持ち主は、30歳の男性ですね。この財布は25歳の春、初めての給料日に買ったものらしいです」
「なるほど……お金だけじゃなく、思い出も詰まってるってわけか」
天秤が、届ける寄りに傾く。
「そんなの知るかよ! 少しだけもらって、財布は返せばいいだろうが──」
「ふむふむ……。持ち主さん、今月、彼女さんの誕生日らしいですね。プレゼントを買うためにかなり切り詰めた生活をしてるっぽいです。あー、ここで中身が減ってたら相当な痛手ですよ」
天使が淡々は読み上げる。決まり手かと思われたが、待っていたとばかりに悪魔が口を開いた。
「ハッ、いい気味じゃねぇか。なおさら金取る理由ができちまったなぁ!」
言われてみれば……。彼女持ちとは聞き捨てならない。
少しだけ取ってしまおうか──
「はぁ……うるさいですねぇ。昨晩はあんなに素直だったのに」
「……ッ!?」
「え、なに? どういうこと?」
「可愛かったなぁ。目をトロンってさせて、『もっともっと』っておねだりするものですから。そのあとはぶっ続けで……」
「黙れ黙れ黙れ!! それ以上言うな!!」
悪魔は青白い顔を真っ赤にさせ、天使に掴みかからんとする勢いでジタバタする。
「俺はもう帰る。もう好きにしやがれ!」
それだけ言い残し、黒い煙の中に消えていった。
悪魔が消えたあと、辺りはしんと静まり返る。
「……では、交番へ向かいましょう」
「あ、ああ……」
俺は財布を握り直し、天使に促されるまま歩き出した。
善人だから届けるわけじゃない。
誰だって、脳内に天使が現れて「交番へ」と説教を始めたら、逆らう気も失せるだろう。
それにしても――。
歩きながら、さっきのやり取りを思い返す。
昨晩は素直だった?
『もっともっと』っておねだり?
ぶっ続けで……?
「…………」
待て待て待て。
財布を拾っただけで、なんで俺は脳内の天使と悪魔の夜事情を聞かされなきゃならないんだ。
「どうかされましたか?」
「いや……」
俺は天使をちらりと見る。
相変わらず涼しい顔だ。
さっきまで恋人の秘密を暴露していたとは思えないほど、神々しい笑みを浮かべている。
脳内の天使と悪魔がデキてるんだが。
――こうして、善と悪に振り回される奇妙な日常が始まった。




