十六話 選択と新たな契約
「……身勝手な不忠をお許しください。僕は、昇進を──」
神の前に深々と頭を垂れ、己のエゴを押し通す覚悟を口にしかけた、その瞬間だった。
「ちょっと待ったぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
ドガァァァァンと、荘厳な神殿の重厚な扉が、爆風のような衝撃とともに豪快に吹き飛んだ。
立ち込める白い煙の向こうから現れたのは──全身から凄まじい湯気を立て、肩を上下させて息を荒げる、一人の小さな悪魔だった。
「ハァ……ハァ……! クソッ……! 天界の光、眩しすぎだろ……!」
悪魔の黒い羽はところどころ焦げ、肌は天界の聖なる光──悪魔にとっては猛毒に等しい浄化の波動のせいで、赤くやけどを負ったように爛れていた。
『お前、悪魔でしょ? ワガママ言えよ!』と背中を押され、文字通り死に物狂いで地獄から天界の階段を駆け上がってきたのだ。
「あ、悪魔さん……!? どうしてここに……っ!?」
天使は目を見開いた。慌てて悪魔のもとへ駆け寄ろうとする。
「ダメです、早く戻ってください! 下っ端の悪魔がこんな場所に長居したら、消滅してしまいます!!」
「ウルせぇ!! 触るなバカ天使!!」
悪魔は差し出された天使の手をガシッと力任せにはね退けた。
そして、呼吸も整わないまま、涙目で真紅の瞳をギラつかせ、天使の胸ぐらを掴み上げた。
「お前……今、何言おうとした……? 昇進を辞退する、とか抜かそうとしたんじゃねえだろうな!?」
「っ……! そ、それは……」
天使が言葉を詰まらせると、悪魔の顔が激痛と怒りで歪んだ。
「ふざけんなよ!! 俺のために昇進を辞退しようとしてんじゃねぇよバカ!!」
「な、なにを言っているのですか! 僕はあなたと一緒にいたいんです! あなたを傷つけてまで上級天使になるなんて、そんなの──」
「それがふざけてんだよ!!」
悪魔の怒号が、静寂に包まれていた神殿内に響き渡った。
掴まれた胸元越しに、悪魔の拳が小さく、けれど激しく震えているのが伝わってくる。
「お前……自分を育ててくれたじいさんばあさんを楽にさせてやりたかったんだろ!? 昔からずっと、そのために頑張ってきたんだろ!? それを……俺と別れたくないからって理由で捨てる気かよ!?」
「悪魔さん……」
「俺はお前が自分を選んでくれたこと自体は……そりゃあ、死ぬほど嬉しいよ!! だけどな……っ!」
悪魔の真紅の瞳から、ポロポロと大きな涙がこぼれ落ちた。
「俺のせいで、お前がずっと大切にしてきた夢や恩返しを諦めるなんて……そんなの絶対に許さねぇ!! お前が俺のために何かを犠牲にして、どこかで『あのとき昇進していれば』なんて悔いを一生残して生きてくなんて、冗談じゃねぇよ!! そんな惨めな思いをして得た幸せなんて、俺のところに届いたって……嬉しくもなんともねぇんだよ!!」
悪魔の叫びは、己のプライドと、天使に対する深すぎる愛の裏返しだった。
自分を選んでくれたことは嬉しい。けれど、それによって天使が「善い奴」であることをやめ、生涯にわたって罪悪感を背負うことなど、悪魔の意地が絶対に許さなかったのだ。
「悪魔……さん……」
天使の思考が停止する。
自分は「正義か、欲望か」の二者択一に苦しみ、泥を被る覚悟で「悪魔を取る」決断をしたつもりだった。
しかし、目の前の悪魔は、そんな綺麗な自己犠牲すらも蹴っ飛ばしてきたのだ。
「お前は天使だろ!!」
悪魔は涙でぐしゃぐしゃの顔で、天使の胸を拳で強く叩いた。
「じいさんたちも幸せにして、俺のことも手放さねぇ『完璧な善』でい続けろよ!! 俺を選んで何かを捨てるな……! 俺が好きなお前は、どんな時だって正しくて、優しくて、カッコいい天使様なんだよ!! 自分の大事なもん守れねぇで、なにが天使だ!!」
「──ホッホッホ、若さとは実に素晴らしいな。なぁ、ルシファーよ」
「まったく……天界に不法侵入した挙句、ノロケの押し売りとはいい度胸だな、下っ端」
観衆の中から歩み出てきたのは、重厚な鎧を纏った白髪の老紳士【大天使ミカエル】と、黒いレザーコートを着こなした冷酷そうな壮年【大悪魔ルシファー】──二人の上司だった。
「大天使様……! 大悪魔様……!?」
大悪魔ルシファーは盛大にため息をつき、頭を掻いた。
一見すると冷徹な上司として立ちはだかる二人だったが、その眼差しには厳しさだけでなく、どこか毒気を抜かれたような揺らぎがあった。
「……ここまでの覚悟を見せつけられちゃあな……」
「そうじゃな……二人の強い絆には、心を打たれざるを得ないわい」
ミカエルはすっとルシファーの腰に手を回し、自身の身体へと優しく引き寄せる。ルシファーも「おい、人前だぞ」と小さく毒づきつつも、その胸元に身を委ねた。
かつて同じように種族の壁を越えて添い遂げた熟年カップルである二人には、下っ端たちの泥臭くも切実な愛が深く胸に刺さっていたのだ。
「……神よ!」
大天使ミカエルが、抱き合う二人を背に庇いながら、神聖な光の渦へ向かって毅然と声を上げた。
「この二人の絆と熱意は本物です。どうか……どうかこの者たちに、双方の願いを叶える道をお許しいただけないでしょうか!」
「おいおいミカエル、柄にもなく熱くなりやがって……まあ、俺からも頼む。このバカどもが諦めずに掴み取ろうとした絆を、ここで踏みにじるのは忍びねぇ。何か別の道を用意してやってくれ」
かつて天界と魔界を統括する厳格な上司二人が、自分たちの身を削るようにして、若い二人のために直談判を申し出たのだ。
二人の直訴を受け、すべてを見ていた神が朗らかに笑い声をあげた。
「素晴らしい。善と悪が互いを想い、高め合う姿……これぞ調和だ」
神聖な光の渦の中から響くその声には、深い慈悲といたずらっぽい温もりが満ちていた。神は優しく、けれど抗えない威厳を込めて告げた。
「若き天使よ。君に『特例措置』を与えよう」
「特例……ですか?」
「現行の人間──あの青年の担当を継続しつつ、今後の成果に応じて、段階的に上級天使と同等の俸給と待遇を与える『特別昇給制度』を適用する。……これならば、担当を変えずに祖父母を楽にさせることも可能だ」
天使と悪魔が顔を見合わせる。
「ただし──条件がある」
神の目が悪戯っぽく細められた。
「担当する人間の善悪をこれまで以上に正しく管理し、圧倒的な成果を出すこと。もし成果が出なければ、即座に特例は取り消し、二人は強制的に引き離す」
つまりそれは──「別れる」のではなく、「今の仕事を極限まで真面目にやって、実力で全員を幸せにしろ」という、成果主義ルートだった。
「……望むところだ!!」
悪魔が涙を拭い、鼻を鳴らしてニヤリと笑った。
「俺が毎日ケツ叩いて、嫌でも成果出させてやるよ! なぁ、バカ天使!」
「ふふっ……ええ! 二人で、あの人を最高の人間に育て上げましょうね!」
天使は悪魔の手を力強く握り返した。
「やれやれ、決まりだな。……はぁ、必死に頭下げたら腰が痛くなってきた。帰るぞ、ミカエル」
「ああ、感謝するよ。戻ったらすぐマッサージしてあげよう」
呆れ顔の大悪魔ルシファーを大天使ミカエルが甘やかしながら、上司ペアは一足先に光の中へと消えていく。
「さあ、帰りましょうか。僕たちの……あのご主人様の元へ!」
前代未聞の「特例公認」を勝ち取った二人は、下界へと駆け降りていく。
自分たちを待ち受ける、あのうるさくて、愛おしい日常へと戻るために。




