十五話 天使の選択
白銀の雲が地平線の彼方まで広がり、荘厳な神殿が聳え立つ天界。
どこまでも清らかで、淀みのない聖なる光が満ち溢れるその場所で、天使は今、人生で最大の分岐点に立っていた。
神殿の回廊では、天使の【上級天使】への昇進を祝う準備が着々と進められている。
間もなく執り行われる昇進式。全天使が羨望の眼差しを向ける栄誉ある式典を前に、天使の元へ二人の老天使が歩み寄ってきた。
「おお……見違えたぞ。神聖な衣が実によく似合っておる」
「本当ですねぇ。こんなに立派になって……お前は昔から優しくて、真面目な子でしたから」
天界の端にある貧しい農村区で、老いた身体を押して暮らしてきた祖父母だった。
自分を拾い、惜しみない愛で育ててくれた二人。その深く刻まれた目尻のシワと、長年の農作業で痛んだ羽を撫でながら、天使は柔らかな笑みを返した。
「おじい様、おばあ様。ご足労をおかけしてすみません。体調は大丈夫ですか?」
「なあに、孫の晴れ舞台じゃ。痛む腰のことなど吹き飛んでしまったわい」
祖母が心底嬉しそうに、天使の手を優しく包み込んだ。
上級天使となれば、天界の上層区に居構え、十分すぎるほどの俸給と待遇が約束される。二人を過酷な農作業から解放し、不自由のない穏やかな余生を贈ることができるのだ。
それは、天使が幼い頃からずっと夢見てきた「一番の恩返し」であり、揺るぎない「絶対の善」だった。
「はい……。お二人をようやく、温かな上層区へお迎えできます」
天使は丁寧に微笑んだ。
──だが、その笑顔には、どこか冷たく寂しい影が落ちていた。
祖父母が「他の天使様方にもご挨拶をしてきますね」と嬉しそうに去っていった後、天使はぽつんと一人、回廊の白い柱に背をもたれた。
静かに目を閉じると、胸の奥にポカリと空いた巨大な黒い穴から、冷たい風が吹き抜けていく。
(……僕は、正しいことをしているはずです)
自分に言い聞かせるように、胸元に手を当てる。
育ての親である祖父母を楽にさせる。これは天使として、一人の孫として、正しく賞賛されるべき道だ。
己の「あの悪魔さんと一緒にいたい」という個人的な執着や欲望のために、祖父母への恩返しを投げ出すなど……あってはならない。正当な理由も、道徳的な正しさも、すべてこちらにある。
……なのに。
なぜ、これほどまでに胸が痛むのか。
脳裏に消えずに焼き付いているのは、最後の夜に激しくぶつかり合った、あの悪魔の顔だった。
胸元を力任せに掴んできた強情な小さな手。今にも涙が溢れ出しそうに震えていた真紅の瞳。
『俺と一緒にいることより……天界での名誉や、仕事の方が大事なのかよ!?』という、悲鳴のような問いかけ。
そして──すべてを諦め、力なく笑って背を向けた、あの絶望の横顔。
(……あんな顔をさせたいわけではなかったのに)
天使の指先が、強く衣を握りしめた。
自分は「正しい天使」として、祖父母を幸せにするために「正しい選択」をしたはずだった。
けれどその「正しさ」の裏側で、自分にとって世界で最も愛おしく、かけがえのない一人の悪魔を、徹底的に傷つけ、絶望の底へ突き落としたのだ。
誰かを救うための「善いこと」が、別の誰かを深く惨めに傷つける。
自分の選んだ「正義」は、本当に正解だったのだろうか。
思考は出口のない泥沼へと沈み込み、息が詰まるような苦しさが天使を襲った。
「──苦しそうな顔をしているな」
重厚で、優しく、すべてを見透かすような声が上空から降り注いだ。
天使がハッと顔を上げると、回廊の奥、神聖な光の渦の中に【神】の威厳ある姿が揺らめいていた。
天使は慌てて膝をつき、深々と頭を垂れた。
「……神よ。お目汚しをいたしました。不甲斐ない姿勢をお見せして申し訳ございません」
「よい。汝の胸中に吹き荒れる嵐は、ここまで届いている」
神の声には、怒りも呆れもなく、ただ慈悲深い響きだけがあった。
「間もなく昇進式だ。だが……汝の心は、ここにはないようだな」
「……そのようなことは。僕は上級天使となり、与えられた義務を果たす所存です。育ててくれた祖父母を楽にさせることが、僕の果たすべき『善』でございますから」
頭を下げたまま、必死に声を張る天使。
天使を見下ろし、神は静かに言の葉を落とした。
「昇進するも、辞退するも君の自由だ」
天使の糸目が、カッと見開かれた。
思いも寄らない言葉に、思わず顔を上げる。
「じ……辞退、ですか……!? そのようなことが許されるのですか? 僕が昇進を辞退すれば……祖父母を上層区へ引き取り、楽に暮らさせてあげることはできなくなります! 正義と義務を捨て、個人的な愛着を優先するなど──」
「天使よ。義務にとらわれ過ぎて、目が見えなくなっているな」
神はふっと柔らかく目を細めた。
「祖父母を幸せにしたいという想いは尊い。だが、それを叶える手段が「上級天使への昇進」一つだけだと、誰が決めたのだ?」
「え……?」
「君が誰かを幸せにする方法は、一つではない」
神の言葉が、天使の凍りついた思考の中に、温かな光となって染み込んでいく。
「上級天使にならずとも、日々の務めに励み、仕送りを増やすこともできよう。休みを取り、自らの手で祖父母の農作業を手伝いに通うこともできよう。……形は変われど、愛を伝える方法は幾らでもあるのだよ」
天使の胸が、ドクンと大きく脈打った。
「君は『祖父母のための正しい善』と『悪魔と一緒にいたいという自らの望み』を、二者択一の敵同士として戦わせていただけだ。……どちらか一方を殺さねば得られないものだと、勝手に決めつけていただけなのだよ」
雷に打たれたような衝撃が、天使の全身を突き抜けた。
──そうだ。
自分は「天使」という役割に縛られすぎていた。
「正義か、悪か」「義務か、欲望か」「祖父母か、悪魔か」。
すべてを二項対立で捉え、自分を「正義の犠牲者」に仕立て上げることで、一番恐ろしい決断から逃げていただけだったのだ。
「善い選択」と「自分が望む選択」は、決して相容れない敵ではなかった。
上級天使への昇進を辞退したとしても、泥臭く、泥に塗れながら両方を追い求める道は、最初から存在していたのだ。
自分はずっと、スマートで完璧な「正しい天使」でありたかっただけなのだ。
傷つかず、誰も傷つけず、綺麗な顔のまま正解を選びたかっただけだった。
だが、本当に大切なものを守るためには、時にその「綺麗さ」すら投げ捨てなければならない。
(……僕は、なんてバカだったのでしょう)
天使の頬を、一筋の涙が伝った。
けれど、その胸の穴は、すでに熱い感情で満たされ始めていた。
「正しい天使」として生きるのではない。
あの悪魔を愛し、泥臭くワガママに、大切なものをすべて抱え込んで生きる──「一人の僕」として生きるのだと。
「……神よ」
天使は立ち上がった。
その表情から、精巧な人形のような無機質な微笑みは完全に消え去っていた。
代わりに浮かんでいたのは、生々しい感情と、揺るぎない覚悟を湛えた、見たこともない強い眼差しだった。
「身勝手な不忠をお許しください。……僕は、昇進を──」
ちょっと待ったぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!




