最終話 善と悪と、日常
すっかり日が落ちた夜の街。
ぬるい夜風を感じながら、俺は近所のコンビニへと向かって一人で歩いていた。
新しく届いた限定ヘッドホンで好きな音楽を聴きながら歩く足取りは、前よりもずっと軽い。
自分の意思で買い、自分の責任で生きる。あの大騒動を経て、俺は自分の中にひとつ、確かな軸のようなものができた気がしていた。
と──その時だった。
コンビニの敷地に入る手前の路上。
街灯の明かりに照らされたアスファルトの上に、ポツンと黒い物体が転がっているのが目に入った。
「…………」
足を止め、見下ろす。
それは、使い古された革の二つ折り財布だった。
……あの時と、まったく同じ状況だ。
俺が思わず苦笑いを浮かべた、その直後。
左右の空間がぐにゃりと歪み、眩い光と漆黒のモヤが同時に弾けた。
「ご主人! ネコババはいけませんよ! 今すぐ拾って交番へ届けましょう! それが健全な市民の義務というものです!」
「ハッ! 日頃の行いが良いから神様がくれたご褒美だろ! 中身だけ抜いて財布はドブに捨てちまおうぜ! 万札入ってたらラッキーだぞ!」
左肩からは優等生ぶった糸目天使の正論。
右肩からは威勢のいい悪魔の邪悪な誘惑。
脳内に直接響き渡る、あまりにも聞き慣れた大音量のノイズ。
俺は深く、深々と溜息をついた。
「……お前ら、本当に戻ってきたんだな」
俺が呆れたように呟くと、左肩の天使は糸目を細め、神々しい笑みを深めた。
「ええ。ご主人の脳内が僕たちの定位置ですから」
「……まあな。仕方ねぇから付き合ってやるよ」
右肩の悪魔はそっぽを向きながらも、その翼を嬉しそうにパタパタと揺らしている。
俺はしゃがみ込み、落ちていた財布を拾い上げた。
「じゃ、交番行くか」
「はい! 素晴らしいご判断です!」
「チッ、ついでに落とし主からお礼の品でもむしり取れよ」
俺たちはいつもの調子で、並んで街灯の続く夜道を歩き出した。
静かな夜道に、三人(実質ひとり)の足音が響く。
ふと、頭に浮かんだ疑問を口にしてみることにした。
「そういや、お前ら付き合ってること、天界と魔界中にバレたんだよな?」
天使と悪魔が顔を見合わせる。
「はい」
「まあな」
「処分されないの? 天使と悪魔の禁断の恋、みたいなやつだろ」
俺が尋ねると、二人は顔を見合わせて、どこか誇らしげにニッと笑った。
「大丈夫ですよ」
「むしろ上司公認になった」
「…………」
上司公認。
あまりにもパワーのあるワードに俺が絶句していると──
ゴゴゴゴゴ……!!
突如として上空の雲が割れ、夜空から凄まじい光と黒炎の柱が降り注いだ。
思わず見上げると、巨大な羽を広げた大天使と、黒炎を纏った大悪魔が、雲の上から身を乗り出してブンブンと手を振っていた。
「おーい! 若い二人! 合同プロジェクトの始動記念に、今夜は天魔合同飲み会だぞー! 無礼講で飲もうではないかー!」
「魔界の上等な酒を持ってきてやったぞ! 朝まで潰れるまで飲むぞ!!」
夜空に轟く、スケールの大きすぎる居酒屋のノリ。
俺の肩の上にいる二人は、顔を歪めて同時に上空へ向かって叫んだ。
「「ご遠慮します!」」
息のぴったり合った即答。
間髪いれずに天使が悪魔の腰を抱き寄せ、耳元でねっとりと囁き始める。
「僕たちは今夜、ご主人の脳内で二人っきりのアツい反省会をする予定ですからね……」
「っ〜〜〜〜!? だ、誰が二人っきりだバカ! 離せ、耳元で吐息吹きかけるなっ……んあッ……」
「こら悪魔さん、可愛い声を漏らしてはいけませんよ……」
「ノリが悪いぞお前たち〜〜!!」
上空でショックを受ける大上司二人と、脳内で限界突破の生々しいイチャつきを始めるバカカップル。
あまりのカオスすぎる光景に、俺はついに耐えきれなくなり、腹を抱えて大爆笑した。
「ハハハハ! あっはっはっは!!」
お腹が痛い。涙が出てくる。
なんなんだ、こいつらは。
天界も魔界も、上から下まで全員バカばっかりだ。
笑いすぎたお腹をさすりながら、俺は夜空を見上げた。
雲の隙間から、綺麗な月が覗いている。
善も悪も、天使も悪魔も。
面倒くさくて、うるさくて、どうしようもない。
それでも──こいつらがいる日常は、案外悪くない。




