第三十七話 神の敵対者①
この瞬間、この世で最も温度の高い熱を帯びた風が大地を這い、血に塗れた体躯に伝う。
口の中は鉄の味で満たされ、唾液を飲み込もうとすれば生臭さが胃の奥にまで広がり、浅く呼吸をするだけでも、まるで見えない刃で切り刻まれるような灼ける痛みが体中に駆け巡る。
……ただ、不幸中の幸いか。
俺の思考はその痛みによって常に現実へと引き戻され、冷静に今の状況を俯瞰することができていた。
(……あ~、こういう状況って、『前門の虎、後門の狼』って言うんだっけか……? って、いや……今は【前門に獅子と竜】か……?)
―――なんて、冷静すぎてどうでもいいことも思ってしまうのはやや不幸寄りかもしれないが……。
ともかく、俺が目の前から目を逸らさずに、二人の肩を借りてゆっくりと呼吸を続けていると、燃え盛る業火の起点――ゴラクZさんがゆっくりと一歩を踏み出し、低く掠れた声である者の名を呼んだ。
「……サクラノヴァ」
ゴラクZさんの纏う熱気……いや、闘気は高まり続け、いつでも全てを焼き尽くす一撃を放ちかねない危険な熱を帯びたまま、彼は言葉を紡ぐ。
「問おう。貴様は……今の貴様に、償いの心はあるか?」
『……償い、だと……?』
彼の純然たる問いかけに対してサクさんは僅かに身構えつつ、しかし……彼自身もまた、熱い感情を含んだ声色でゴラクZさんに視線を返す。
『……貴様はどうなんだ、ゴラクZ? ……仲間を傷つけた貴様は今、マスターに償う気持ちがあるか?』
冷徹な骸骨の面を揺らしながらそう言い放つと、身の毛もよだつほどの濃厚な【死臭】が周囲へと広がり、彼の足元が―――凍り付く。
彼らの身体から発される冷気と熱気は気流の渦を生み出し、二人の間を激しい突風が吹き荒れる。
「……俺、は……」
ゴラクZさんがその先を言おうとしたその時、俺は何とか落ち着いた呼吸のまま、声を出す。
「……っ、サクさん……大、丈夫……ゴラクZさんは悪くない、よ……」
『……なに?』
その言葉に、サクさんの動きがピタリと止まる。
絶えず死の香りを放ちながらこちらを見やる彼の瞳の奥には、僅かな揺らぎが見えた。
……いくら常に感情に左右されない男だといえど、今のこの状況は、彼にとってそう簡単に決断しうるものではないだろう。
ずっと信頼しあってきた仲間の裏切り……彼にはそう見えても仕方がないのだから。
けれど―――、と、俺がその先を告げようとした矢先。
ふと、彼の瞳の揺らぎがゆっくりと収まったのが視界に映り……俺は、血の滲む口角を僅かに吊り上げた。
今、かつて彼に言われた言葉をそのまま返すのなら……"理解が早すぎる"んだよな、この人は……。
『……いや、そうか……。先から感じるこの熱の違和感……そういうこと、か?』
彼の言葉に、俺は強く頷く。
言葉を発する余裕すらないほどに体力の限界が来ていたというわけではないが、彼に対しては、変に言葉で返すよりかはこちらのほうが都合がいい。
……と、その小さな頷きが持つ意味をサクさんが理解し、視線を前方へと向けた瞬間、頭上の空気が劇的に重さを増し、周囲の温度が数度上がったような感覚を覚え、俺もまた前方に意識を戻す。
神経を、体の内側から逆撫でされているかのような嫌な感覚。
魂の内側を、直接焦がされているかのような嫌な熱。
身を焦がすほどの熱を放てる存在は数知れど、嫌な気を抱く熱を放てる存在なんざ、この場所に一人……いや、一体しかいない。
《ほぅ? 自ら気づくとは中々……存外、そなたらが王の仲間だというのも頷けるというもの……か》
滅炎竜オルガヌス。
俺たちを見下ろすその黄金の瞳に宿るのは、言葉とは裏腹にまるで虫ケラを見るような冷淡さと、すべてを思い通りにしてきた者の歪んだ愉悦。
そんな彼は巨大な翼を大きく広げ、上から見下ろすがままに言い放つ。
《そうだ。我が放つこの熱はただの熱ではない……。我が司るのは――――【怒り】》
「……? 怒り……? って、どういうこと……?」
猫バイトさんが警戒しつつもオルガヌスの言葉に首を傾げるも、対称的にサクさんは彼の言葉に合点がいったとばかりに唸る。
『……怒りに熱……。……ふん、察するにゴラクZは、貴様が放つ【怒り】とやらに中てられ、感情を制御出来ずに俺たちを攻撃している、といったところか……?』
《なんと……! これだけの情報でそこまで理解できるとは……! ククッ……二千と余年ほど眠りについていた甲斐があったというものだ!》
サクさんの推理に初めてオルガヌスの表情に驚きが含まれるも、しかしすぐに首を振り、口惜しいとばかりに落胆の声を零した。
《……だが―――憐れなり劣等種族の王よ。それを理解出来たところとて……其方には何もできぬ――!》
オルガヌスがそう言葉を紡いだ瞬間、ゴラクZさんの周囲を渦巻いていた、圧倒的な熱量がさらに暴威を増す。
「……ッ……!」
その熱は、サクさんの骨を灼き。
「うぅっ……! 熱いっ~~……!! なんで!? 僕の体なら熱い訳がないのに!?」
猫バイトさんの認識すら熱し。
「……ぐっ……! ゴラ、クZ、さん……っ!」
そして、俺の皮膚をジリジリと焦がす。
オルガヌスの放つ嫌な熱に浮かされた彼の目に宿る強烈な殺意は、先までとは比較にならないほどの莫大な熱量を伴い、金色の鬣から迸る奔流となって周囲に火花を巻き散らす。
そこにかつて、俺たちと肩を並べて戦った仲間としての面影は一切なく、その場に立っているのは、感情の炎にすべてを乗っ取られた……まさに―――。
『……レイドボス、とはよく言ったものだな……』
その凄まじい変貌を目の当たりにしたサクさんは、俺に視線を向け、切迫した声音で続ける。
『……マスター! ……奴を救う手段は……あるのか……?』
「……もちろん。でも、それをするために……準備がしたい……! ……っ、サクさん、猫バイトさん……少しだけ……俺のことを守ってくれないかな……!」
そんな俺の切羽詰まった様子を見たサクさんは冷徹な眼窩の奥で静かに青い光を揺らめかせると、暴走するゴラクZさんを見据えたまま不敵に言い放つ……いや、言い放ちやがった……?
『……いいだろう。……にしても防衛戦とやらはいつぶりだろうな? ……だが、マスター? 別に、奴を倒してしまっても構わないのだろう?』
「……! それ、はっ……、げほっ、かはっ……!」
彼の冗談とも本気ともつかない物騒な提案……というかどっかで聞いたような台詞に、俺は抑えていた血を吐き出し、その場に倒れこむ。
……それ死亡フラグになりえるんじゃ……?
「マスター!? ちょ、ちょっと落ち着いて!? 大丈夫なの!?」
『……冗談だ。少し気が紛れただろう? ……安心しろ。貴様には指一本だけしか触れさせん……』
俺の吐血を見て青ざめた猫バイトさんと、流石にこの状況でふざけすぎたとばかりにばつが悪そうな雰囲気を纏うサクさんに対し俺は……ってオイ、それ結局触れてるじゃねーか。
……なんて。
まったく、こんな状況で何を言ってるんだ、とは思うものの。
しかし、不本意ながら彼のお陰か。
張りのあった緊張の糸は緩み……俺は、すべてを彼らに預けるように、気負わず、ゆっくりと目を閉じることができた。
「……ったく……頼んだよ、サクさん、猫バイトさん」
そう言うが早く、俺は二人の肩からそっと身体を離し、両手を地面に突いて、息を整えていく。
――今、俺ができる最善。
心を落ち着かせ、感情を沈ませる。
痛みを忘れ、苦しみを消し、辛さを殺す。
――実戦……というより、この世界で使えるのかは賭けになるけれど……。
視覚や聴覚という表層の感覚を断ち切り、内なる深淵へと意識を深める。
深く、昏い場所へ、もっと、もっと深く……。
―――前提として、ゴラクZさんを救うためには、オルガヌスを倒す必要がある。
だけど、今の俺の満身創痍な状況では最終手段を使ったとしても恐らく奴には勝てない……。
であるのならまずは―――。
(―――【竜血創生】!)
俺が心の中で叫んだ瞬間、両手を突いた直下の地面が、言葉に呼応するかのように、妖しくも美しい虹色の光を放ち始め、無数の幾何学模様となって自分の肉体を取り囲むように展開して行く。
その"起こり"を感じた俺は、無事にスキルが発動したことにまずは安堵し――。
それは無数の幾何学模様となってマスターの肉体を取り囲むように展開し、誰もが目を奪われるほどに神々しい美しさを孕んでいたが―――次の瞬間、すべての幾何学模様が禍々しいほどに赤黒く染まり、魔法陣から現れた悍ましい肉のようなものが、まるで蛇のように、あるいは獲物を絡め取る鞭のようにしなりながら、マスターの全身をあっという間に包み込み、禍々しい繭のようなものを創り上げる。
「うへぇあ!? なんこれ気持ち悪っ!?!? マスター!?!?」
そのあまりにもおどろおどろしい肉の繭を見た猫バイトが思わずそう叫ぶも、しかしその声は……マスターにはもう、届いていない。
―――【竜血創生】。
それは、悍ましい見た目反して、マスターの持つ最高峰の自己治療スキル。
生成された高耐久の肉の繭の中で、失った肉や骨、そして枯渇寸前の血液を、身に宿る莫大な魔力によって強引に補完、高速で再構築するという、圧倒的な回復性能を誇るというもの。
しかし当然、強力なスキルには大きなデメリットも存在する。
それが、発動と同時に発動者を強制的な睡眠状態へと陥らせ、一切の行動や攻撃を不可能にさせるというもの。
……とはいえ、それを差し引いてもなお、死んでさえいなければ高速で全回復が可能、というのは、まさに最強の種族ならではのスキルであり、あくまで睡眠も短時間ゆえにデメリットらしいデメリットはない。
……尤も……体が炎で出来ているゴラクZや、死なないサクラノヴァに猫バイトと……あまりにも周りが規格外な上、マスター自身、ゲーム時代にこれを使うまでのダメージを負ったことがないゆえに……未だ使ったことがないほどに目立ったことがなかったものなのだが……。
まさかそれが仇になるとは、この時の誰も夢にも思わなかっただろう。
『……【竜血創生】か……。大丈夫だ、猫バイト。マスターのあの怪我ならば……恐らく一、二分で帰ってくるだろう……それまで持ち応えるぞ』
「……! そうなんだ! よ~っし、マスターには指一本も触れさせ……って、一本までは良いんだっけ?」
【竜血創生】は……というより、かつてのゲームに存在する自己再生スキルは、基本的に受けたダメージに比例して、完全回復するまでの時間が伸びるという仕様がある。
当然、このスキルを初めて使用したマスターもこの仕様を知っているが、そもそも、【竜血創生】は竜種の中でも最高峰の自己再生スキル。
失った翼の大部分と血液を補完するものでさえ、長く見積もっても三分程度の回復時間で済むだろうと考えてこのスキルの発動を決意している。
それぐらいの時間ならば、彼らなら問題ないと判断したために。
しかし、ここで大きな誤算が積み重なり、彼らを襲った。
第一に、彼が今まで一度も【竜血創生】を使ったことがないこと。
第二に、彼が失った翼こそ、竜種の心臓の一部であると認識していなかったこと。
そして第三に、本来再生が不可能な竜種の心臓を、唯一再生する術こそが――【竜血創生】であると知らなかったこと。
……それに付随する第四。
心臓を再生するのにかかる時間、それを知らなかったこと。
―――――マスターが放った【竜血創生】。
その適用時間は――――時間にして、約二十分。
そしてそれを――――。
「さってと、マスターが返ってくる前にでも、片づけちゃいますか~~!」
『ふん……それは良い案だ……』
――――彼らは、知る由もなかったのだ。
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次回更新は、……遅くても来週の土曜日です。




