第007話 それでもお腹はすくんだ
昨日、決めた自分自身との約束は一つだけだった。
明日は橋の向こうへ行く。
今日になっても、その約束を取り消したくはなかった。
朝、空腹で目を覚ました。
時刻は九時十二分だった。
普段なら、とっくに仕事を始めている時間だ。
「ロク、どうして起こしてくれなかったの」
言ってから、思い出した。
ロクはいない。
昨日も同じことを何度か繰り返した。おそらく今日も繰り返すのだろう。
ベッドから起き上がったが、寝室の照明は消えたままだった。カーテンも閉まっている。
壁際にある操作盤を探し、昨日覚えた方法で照明をつけた。
明るくなった部屋で、自分の姿が目に入った。
昨日と同じ服を着ている。
そういえば、お風呂にも入っていなかった。
とりあえずお風呂に入ろう。
扉を開けると、清潔な浴槽があった。
湯は張られていない。
「……だよね」
お風呂にある操作盤を眺めた。
水温、湯量、洗浄方式。
見慣れない表示が並んでいる。
普段ならロクがすべて調整していた。
適当に一つ押してみた。
浴槽の底から冷たい水が勢いよく噴き出した。
「うわっ!」
慌てて別の場所を押す。
今度は天井からシャワーが降ってきた。
服を着たまま、頭から水を浴びた。
「冷たっ!」
浴室から飛び出したら、今度は床に水滴が落ちる。
これまで、自分が浴室を濡れたまま出たことなど一度もなかった。
ロクが乾燥設備を作動させ、床も身体も適切に乾かしていたからだ。
急いで服を脱いでタオルを探した。
収納棚には、きれいに畳まれたタオルが何枚も入っていた。
一枚取り出し、頭を拭く。
着替えも同じ収納棚に入っていたが、どれを着ていいかわからない。
とりあえず一番上にあったものを着ることにした。
それだけのことなのに、妙に疲れた気がした。
人間は昔、毎日こんなことをしていたのだろうか。
信じられなかった。
午前十時を過ぎたころ、承認部門から連絡が入った。
端末の画面に文字が表示された。
《業務開始が確認できていません》
《就労開始を選択してください》
「就労開始」を押した。
《個人AIとの接続が確認できません》
《業務遂行能力の再評価が必要です》
「何なの、それ」
何度か画面に触れた。
同じ文字が表示される。
しばらくすると、承認部門の担当者から通話が入った。
「有馬さんですか?」
「はい」
「個人AIの接続が終了しているようですが」
「ちょっと事情がありまして」
「再接続の予定は?」
「それが、できないらしいんです」
担当者は黙った。
「……放棄されたということですか?」
「はい」
「そうですか」
その声には、驚きも同情もなかった。
単に、珍しい事務処理が発生したという口調だった。
「では、当面の業務を停止します」
「え?」
「個人AIを必要とする職務については、再評価が必要ですので」
「私自身は何も変わってないですよ」
「ですが、業務支援環境が変わっています」
「資料の承認くらいできますよ」
「承認の判断に必要な情報を、ご自身で評価できますか?」
「できる」と言いかけたが、なにも言えなかった。
昨日まで自分が承認していた資料の内容を思い返すと、具体的に何を確認していたのか説明できなかった。
「……勉強すれば」
「もちろん、その機会はあります。再訓練の案内をお送りします」
天井を見上げて、息をついた。
ロクがいない。それだけで、仕事まで失った。
いや、正式に失ったわけではない。
だが、再訓練の案内がいつ届くのかわからない。
「一つ聞いてもいいですか?」
「はい」
「私、今まで何の仕事をしてたんでしょうか」
担当者は少し間を置いた。
「生活環境管理に関する承認業務です」
「それは知ってます」
「ほかに何か?」
「……いえ」
「では、再訓練の案内が届きましたら、ご確認ください」
通話が終わった。
私は端末を置いた。
しかし、こんなときでもお腹はすく。
人間の身体というのは、ずいぶん勝手なものだ。
ふと昨日の老人の言葉を思い出した。
――橋の向こう。
――古い水門。
『人間しかいない場所』
行ってみよう。
どうせ仕事もない。
玄関で勢いよく靴を履いた。
扉を開けるのにかかった時間は、一分ほどだった。
昨日より、二十九分も早い。
誰かに自慢したかったが、聞いてくれる相手はいなかった。
第007話登場人物
有馬 灯里 (ありま あかり) ・・・本作の主人公
担当者 (たんとうしゃ) ・・・承認部門の担当者




