第005話 頼れる青年
やはりじっとはしていられなくなったので、もう一度外へ出てみることにした。
ロクなら目的地までの最短経路を教えてくれた。その経路から少しも外れたことがなかった。
今は、道路の向こう側へ渡ることすら怖く思えた。
建物の外に出ると、街はいつもどおり動いていた。
自動運転車が音もなく通り過ぎる。
運転免許証が廃止になり、6歳から一人で自動車に乗れるようになって以来、歩いて移動する人の姿が激減していた。
遠くで配送用車が荷物を運んでいる。
誰も困っていなかった。
誰もがAIに守られていた。
街の通路は、一人で歩くには広すぎた。
正確には、ずっと一人だった。
子どものころも、研修へ行くときも。
だが、ロクがいれば、進む方向を示す白い線が足元に現れ、危険な場所は自動で避けられた。
その線がないだけで、道は別の生き物のようになった。
方向感覚というものを必要としなくなっていたので、三回同じ建物の前を通った。
壁に描かれた青い鳥を見て、そう気づいた。
ふと気付いたら車道に足を踏み出してしまった。
危うく車と衝突しかけたのだが、車は衝突防止のため減速をした。
道路上部に設置されている透明な表示板に警告が浮かんだ。
《歩行者推奨移動経路ではありません》
「わかってるよ!」
この期に及んでまたAIに言い返してしまった。
道路の反対側には大きな公園があった。
水が流れているように見えたので行ってみたいと思った。
足を踏み出そうとすると、腕を軽く引かれた。
「危ない!」
振り返ると、制服姿の青年がいた。
十代の終わりか二十代の初めに見える。手首には接続中の青い光が点いていた。
「危ないのは車の方でしょう。止まってくれるんじゃないの」
「止まるよ。たぶんね。でも、絶対ではない」
「AIって事故を起こさないんじゃないの?」
「起こさないように設計されてる。事故がゼロとは言ってない」
横断歩道の赤い印を見た。
少し前まで、そんな印があることすら知らなかった。
「ありがと」
「どういたしまして」
青年は笑って去ろうとしたが、ふと戻ってきた。
「あなた、個人AIがないの?」
「なんで分かるの」
「さっきから進路案内が出てないみたいだから」
青年の肩に小さな投影機が浮かんでいた。
「朔です。生活安全課所属って言っても研修中だけどね」
「灯里」
「灯里? もしかして有馬灯里?今日、生活支援センターに何度も電話した?」
「……なんでそんなこと」
「当番だったから通知が出てたんだよ。個人AIの放棄者が都市西区に一人いるって。珍しいから覚えちゃった」
私は眉を寄せた。
「人に知られちゃうの?」
「生活の安全支援に必要な範囲だけね。悪かった、勝手に聞いた」
朔は少し照れたように笑った。
「家、帰れる?」
「帰れるよ。道ぐらい覚えてる」
そう答えたが、答えながら不安になった。
歩き始めた方向と、いま立っている方向が一致している自信がなかった。
「ならいいけど。困ったら公共案内板、使えるから」
「何それ」
「昔からある街の地図」
朔は道端の柱を指さした。小さな板に、線と四角がたくさん描いてあった。
しばらく、その板を見た。
「これ、全部覚えないと駄目?」
「いや、いまいる場所と、行きたい場所だけ分かればいい」
朔は自分の端末を開こうとして、止めた。
「……手で説明した方がいい?」
少々意地になって答えた。
「うん」
彼は地図の一点を指した。
「ここが現在地。ここが橋。こっちは図書館。北は上」
「北って?」
「……そこからか」
朔は吹き出し、すぐに謝った。
私も、ちょっとだけ笑った。
無知な自分を誰かに見せるのは恥ずかしい。でも、からかわれても、自分が消えるわけではない。
……恥はかき捨て、恥はかき捨て。
彼は細い紙に、矢印と曲がる場所を書いてくれた。
「これ、持っていって」
「ありがとう」
紙を受け取った瞬間、嬉しかった。
食べ物の箱とは違った。
これを作ってくれた人の顔が、まだ目の前にある。
そんな単純なことが、私には新鮮だった。
紙の地図を折り畳むだけなのに、折り目を何度も逆に曲げていた。
最後には小さな四角ではなく、よれた塊を手に持っていた。
「これ、うまく折れないんだけど」
朔は肩をすくめた。
「別に正しい折り方なんてないよ。読めればいい」
「破れそう」
「破れたら、もう一枚書く」
「そんな簡単に」
「紙だし」
その返事を聞いて、初めて気づいた。
壊れても終わりじゃないものがある。
ロクを手放したとき、世界が全部壊れたように感じた。
自分だけ取り残されて、二度と元に戻せないことが、何より怖かった。
でも、地図が破れたら、書き直せる。
「どうかした、有馬灯里?」
「ううん。何でもない。ていうか何でフルネームなのよ」
「ごめんごめん。最初にそう覚えたから、つい。気にしないで」
朔は私の持つ箱を見た。
「それ、昼ご飯?」
「うん」
「まずいでしょ」
「言っていいの?」
「言えるよ。俺も研修の最初に食べたことある」
朔はポケットから小さな丸い菓子を取り出した。
「これ、食べる?」
「ロクがいたら止めると思う」
「今はいないんだろ?」
私はその小さなお菓子を見つめた。
誰かがくれたものを、栄養成分も確認せずに食べる。怖いと思った。
でも、このときは恐怖より、興味が勝った。
口に入れると、酸っぱい味がした。梅のような味。
「酸っぱ!」
「だろ?」
朔が笑った。
私も思わず笑った。
最適じゃないものが、この世にはある。
「何味なの?」
「さあ。婆ちゃんが作ったんだ」
「作った?」
「うん。レシピは忘れたって」
「危なくないの?」
「少なくとも、俺は今日も生きてる」
朔という青年のどこか前向きな言葉と、初めて食べた酸っぱいお菓子の余韻に少しだけ浸った。
これが好きだったかどうか、まだよく分からない。
でも、初めて会った人に何かを教えてもらい、何かを分けてもらった。
このことは忘れたくないと思った。
第005話登場人物
有馬 灯里 (ありま あかり) ・・・本作の主人公
朔 (さく) ・・・生活安全課所属の青年




