第004話 同棟の住人
とりあえず扉は開いた。
だからと言って、それだけで暮らしていけるわけではなかった。
扉が開いただけなのだが、私は人生で初めて拍手をしたくなった。
もっとも、拍手をしてくれる人間はいない。
支援窓口の女性には、礼を言うより先に通話を切られてしまった。
用事が終わったのだから当然なのだが、少し寂しかった。
それよりも困った。扉が開いたはいいが、どの靴を履いていいかもわからなかった。
玄関には三足の靴が並んでいる。
外出用の軽い靴。雨の日用の靴。歩行支援機能付きの靴。
しかし、外の天気が分からなかった。
窓を見たら青空だった。
気温は? 風は? 今までなら玄関に立つだけで、その日に必要な服装が整っていた。
「……晴れてるから大丈夫か」
私は一番軽い靴を履き、扉の前に立った。靴が左右逆だとは気づかなかった。
そこへ、隣の部屋の扉が開いた。
「あら」
初めて見る女性が顔を出した。白い髪を肩のあたりで切りそろえ、淡い灰色の服を着ていた。
「今朝、廊下の音が大きかったけど、何かあった?」
一瞬、何と答えていいかわからなかった。
当然だ、声を掛けられる予定など私には入っていない。それに今はそれどころじゃなかった。
「いえ、別に」
「そう。だったらいいの」
女性は踵を返しかけ、私の手を見た。
「怪我したの?」
玄関の非常開錠板をこじ開けたとき、指の皮が少しむけていた。でも血はもう止まっている。
「これくらい大丈夫です」
「消毒した方がいいわよ」
「個人AIがいなくて」
ぽろりと、その言葉が出た。
女性は足を止めた。
「……そう」
「自分で、放棄したんです」
「そうなの」
「だから、別に困ってないです」
女性の目が、私が選んだ軽い靴に落ちた。
「それはよかった。でも靴は直した方が歩きやすいと思う」
「え?」
「右と左」
私は足元を見た。
右足の靴には小さな『L』、左足の靴には『R』の文字があった。
「……見なかったことにしてもらえますか」
女性が笑った。
「分かった。私は九条。何か必要なら三〇二号室にいるわ」
「有馬です」
「それは知ってる」
「何で?」
「郵便受けに書いてあるもの」
私は、初めて自分の部屋番号を意識した。
壁や床と一緒に存在していただけの数字が、誰かに伝えるものだったなんて。
九条はエレベーターへ向かった。
「行く先は?」
「……まだ決めてません」
「それもいいわね」
九条は下向きの矢印を押した。
その指先の動作を、私はこっそり見て覚えた。
九条と一緒にエレベーターに乗った私は食べ物を買おうと思い、居住棟の外にある販売所へ行った。
大きなガラスの向こうに、きれいに箱が並んでいたが、私はここへ来たことがない。
毎日の食事は自宅へ届き、食材と調理は家の設備が管理していたからだ。
端末をかざしたが、画面には警告文が表示された。
《個人AIによる購入内容の安全確認が必要です》
「そんなのないよ」
機械は答えない。
係の人間を呼ぶ印があったので押した。二分後、一人の青年が姿を現した。
「何かお困りですか」
「食べ物が買えなくて」
「個人認証は?」
「あります。ほら」
それは物心ついたときにはすでに手首についていた。
個人情報が記録された薄い金属製の端末で、身分証明の役割を果たしている小さな識別片を青年に見せた。
すると青年は顔色を変えた。
「接続が切れていますね」
「はい」
「では、手動の購入許可を申請します」
「食べ物を買うだけですよ?」
「申し訳ありません。誤嚥や食物アレルギーの確認が必要なので」
結局、この時手に入れられたのは、味の薄い栄養補助食品だけだった。
年齢相応の摂取基準が印刷された箱を受け取った。
外へ出て見上げれば、通りの向こうには
『自由な暮らしを、すべての人に』
という広告が映し出されていた。
「自由、ね」
私は箱の蓋を開けた。
一口かじった。
柔らかくて、妙に甘かった。
何も味わいたくない日のために作られた食べ物みたいだ。
自分で選んで手に入れた初めての昼食だったのに、少しも嬉しいという感情はなかった。
特に行き先も決まらないので、部屋に戻ることにした。
壁も床も清潔で、空調は適温に保たれている。
いつもと変わらない世界だった。
変わったのは、自分とロクの端末だけだった。
エレベーターの前に立った。
なんとなく予想はしていたが、扉は開かなかった。
「……やっぱり」
天井を見上げた。
普段ならロクが行き先を指定していた。
部屋の扉も開けられないのだ、エレベーターを自分で呼ぶ方法など、当然知らなかった。
壁に丸い印が二つ並んでいる。
上向きの矢印と、下向きの矢印。
しばらく眺めてから、上向きの印に触れた。
ポーン
小さな音が鳴って扉が開いた。
「おお……」
思わず声が出た。
エレベーターの中には、先客がいた。
少し驚いたのは、先客が九条だったからだ。
この建物に住んで二年になるが、住人と同じエレベーターに乗ることはほとんどなかった。
それぞれのAIが移動時刻を調整し、待ち時間や混雑を避けていたからだ。
それなのに今日は、二度続けて同じ住人とエレベーターに乗り合わせた。
「あらまた会ったわね」
女性が言った。
またも突然話しかけられたことに驚いた。
「……どうも」
少し遅れて答えた。
女性は笑った。
「靴、まだそのまま。あなたはそのほうがいいのかしら」
そもそもロクがいれば間違えることもなかった。
「ああ、これ……」
慌てて靴を履き直そうとした。
女性が笑った。
「いいのよ。別に死ぬわけじゃないんだから」
その言葉に、私は手を止めた。
死ぬわけじゃない。
確かに、そのとおりだった。
靴を左右逆に履いたところで、死にはしない。
扉を開けるのに三十分かかっても、死にはしない。
卵を料理できなくても、今日すぐに死ぬわけではない。
ただ、もし明日も、明後日も、ずっとロクがいなかったら。
食事はどうする。
仕事はどうする。
病気になったら。
災害が起きたら。
私は急に怖くなった。
九条が尋ねた。
「どうかした?」
私は靴に手をかけたまま顔を上げられずにいた。
こんな密室で突然泣き出したことに気づかれたくなかった。
エレベーターが三階に到着した。
九条は先に降り、振り返った。
「あまり、思いつめないようにね」
私は下を向いたまま小さく頭を下げた。
それから、ふと思い出して声をかけた。
「あの!」
九条が振り返った。
「はい?」
「……靴、ありがとうございました」
「どういたしまして」
九条が笑って歩き出すその後ろ姿を見送った。
胸の奥が、温かくなった。
ロクがいなくなった不安が少しだけ和らいだ気がした。
第004話登場人物
有馬 灯里 (ありま あかり) ・・・本作の主人公
ロク (ろく) ・・・灯里の個人AI
九条 (くじょう) ・・・灯里と同じ居住棟三○二号室の住人
青年 ・・・販売所の係員




