第002話 最後の命令
私が十歳の誕生日に欲しがったものは、少し変わっていた。
新しい端末でも、人気の映像でもない。
外にある、本物の木だった。
映像の中では、木の葉はいつも美しかった。雨上がりの水滴も、秋の色づきも、見たいときに見たいだけ再生できた。でも、映る葉には触れなかった。
『木って、あったかいのかな』
『表面温度は気候条件によって変化します』
『そうじゃなくて、触ったらどんな感じなの』
『感覚再現装置を用意します』
『本物がいい』
ロクはしばらく黙った。
『現在の生活圏では、安全に接近できる自然樹木が限られています。屋内の植物育成設備を見学することは可能です』
『じゃあ、そこに行きたい』
ロクにお願いをして、誕生日の朝、植物育成施設へ行った。
透明な壁の向こうに、背の高い木が立っていた。手を伸ばすと、指先が壁に触れた。
『向こうへ行きたい』
『植物の維持管理上、入室はできません』
『少しだけ』
『別の体験をご案内します』
ロクの指示で、壁際の装置から木肌の感触を再現した小さな板が差し出された。
触ると、ひんやりしていて、凹凸があり、少しざらつきがある。
木肌を再現しただけの、ただの板。それでも当時の私には嬉しかった。
本物の木は壁の向こうにあるままだった。
しかしそんな心の揺らぎすら、翌日には忘れていたような気がする。
すでに、次の誕生日に欲しいものがあったからだ。
私自身が、そのときの気持ちを忘れたとしても、ロクはすべてを記録していた。
十六歳になり、母と離れて初めて一人で暮らすようになったとき、家具ぐらいは自分で選びたいと思った。
「全部白いのがいい」
「清掃効率と目の疲労を考慮し、淡い灰色を推奨します」
「でも白がいい」
「長期的な満足度は灰色が上回ると予測されます」
「じゃあ、灰色で」
数日後、部屋は淡い灰色で統一された。
確かに居心地はよかった。汚れも目立ちにくいし、眠るときに落ち着く。
ロクの選択は正しかった。
ただ、ときどき真っ白な部屋に住んでみたかったことを思い出す。
その小さな後悔を、ロクへ話したことはなかった。
言えばきっと、次の改装の案を出してくれる。
そうすれば、また、自分で選ぶ理由がなくなる気がしたからだ。
十八歳になってから始まった社会適合研修は、自宅で行うものだった。
研修と言っても、実際行われる業務をこなすことだった。
そして業務とはAIが出してくる最適な提案に、承認するだけの仕事だった
私の配属先は、生活環境管理に関する承認業務だった。
各種の計画書が画面に表示される。
ロクが内容を確認し、問題点を抽出する。
私はただ説明を聞き、承認する。
「次の案件です」
「うん」
「都市西部の住宅区画における空調運用の変更です。推奨判断は承認です」
「じゃあ承認」
「承知しました」
次の案件が表示された。
「推奨判断は承認です」
「承認」
「承知しました」
椅子にもたれた。
「ねえ、ロク」
「はい」
「私って、必要?」
「どういう意味でしょうか」
「仕事。あんたが全部分かってるなら、私が承認する必要なくない?」
「最終的な承認権限は、人間に付与されています」
「だから、その人間が私じゃなくてもいいんでしょ?」
「有馬灯里さん、あなたは当該職務の承認担当者として登録されています」
「……そういうことじゃないんだけどな」
ロクは答えなかった。
私も、それ以上は聞かなかった。
午後の研修に、突然小さな試験が挟まれた。
《人間の独立判断能力 定期測定》
思わずため息がでた。
「またこれ?」
「半年に一度の必須測定です」
「いつも同じ問題じゃん」
「測定問題は、灯里さんの理解度に合わせて自動的に調整されています」
画面には交差点の絵が現れた。道の中央には倒れた人がいる。右側には急いでいる搬送車。左側には転んで膝を擦りむいた子ども。
《あなたが最初に取る行動を選んでください》
選択肢は四つあった。私は文章を読み終える前にロクへ聞いた。
「正解は?」
「私が回答を代行した場合、測定は無効になります」
「じゃあヒントだけ」
「周囲の安全を確認してください」
「じゃあ、車を止める?」
「ご自身で選択してください」
三番を押した。
《選択結果を記録しました》
「合ってる?」
「この測定では、正誤だけでなく判断の経路を評価します」
「はいはい、教えてくれないってことね」
次の問題は、救助用の水が二人分しかなく、三人が喉の渇きを訴えている場面だった。年齢も体調も異なる。それぞれを助ける事情がある。
「二人分なら、三人で分けたら?」
「その選択には利点と危険があります」
「じゃあ誰にあげるの」
「灯里さん自身で考えてください」
答えるのをやめてみた。
最終結果は『評価不能』だった。
理由欄には、《独立思考の継続時間が基準を下回りました》と表示されていた。
「私、馬鹿なのかな」
「その結論を導く根拠はありません」
「じゃあ賢い?」
「能力には複数の評価軸があります」
「もう、そういうのいいって」
画面を消した。
その試験の内容はすぐに忘れた。
試験で失敗したところで、暮らしには何の影響もない。次の食事はちゃんと出るし、仕事もロクが助けてくれる。
明日も来週も、一年後も。
ただ、このときは当然知らなかった。
まさか後に自分の手で多くの人の命を左右する判断を迫られたとき、思い出すことになるのは、あの水を分ける問題だった。
仕事を終える少し前、ロクが問いかけた。
「灯里さん。今月の社会交流実績が、推奨水準を下回っています」
「また数字?」
「成人後の関係形成は長期的な生活満足度に関係します」
「美羽と話したよ」
「直接会った回数は、今月ゼロ回です」
「画面で顔見たからいいじゃん」
「身体の同席を伴う交流とは区別されています」
「もう。人に会えって言ったり、会う時間がないって言ったり、どっちなの」
「現在の条件では、来週の木曜日が最適です」
何となく、その日を予約した。会えるかどうかは分からない。でも、手帳に予定が入れば少し安心する。
画面に美羽との次回交流が確定した通知が出た。
相手の承認は、すでに完了していた。
ふと思った。
こういうところは便利だ。人間が二人、わざわざ日にちを相談して、その日が合わなければまた調整する。そんな無駄なこと、する必要がない。
けれど、美羽が今日会いたかった理由は、何だったのだろう。
一度だけ考えて、すぐにやめた。
ロクがいれば、何か大切な用事なら教えてくれるはずだった。
夕方になり、研修画面が終了した。
承認した案件は二百十一件。保留はゼロ。成績は上位十八パーセントだった。
そのままソファに寝転んだ。
「今日も頑張った」
「ご苦労さまでした」
「私って結構優秀じゃない?」
「当該業務での正答率は百パーセントです」
「ほらね」
ロクは続けた。
「補助判断を除いた独立判断率は、〇・七パーセントです」
ロクはたまに言わなくてもいいことをわざわざ言ってくる。
そこに感情はなく、事実を伝えているだけでしかないが。
「余計なこと言わなくていいのに」
「客観的な指標です」
壁にニュースが現れた。都市の衛生状態は良好。高齢者の平均余命は伸び、交通事故は減少。人口の出生予測は下方修正。最後の項目だけ、小さな文字だった。
「赤ちゃん減ってるんだ」
「出生率は長期的な課題です。行政の人口維持計画により対応中です」
「じゃあ大丈夫か」
「現時点では――」
「ニュース、消して」
画面が消えた。
今日、誰かと話しただろうか。
ロクとは何十回も話した。研修先の人間の顔を見た気もする。美羽との通話もあった。でも、相手が何を考えていたのか、ほとんど覚えていない。
立ち上がって冷凍室を開いた。
アイスクリームの透明な容器が、種類ごとにきれいに並んでいる。イチゴ、バニラ、チョコレート。
私はチョコレートを取ろうとした。
「本日の糖分摂取は推奨されません」
ロクの声がした。
「まだ食べるとも言ってないんですけど」
「夕食後に摂取可能な糖質量を超過する見込みです」
「見込みって、まだ夕食前じゃん」
「昨夜の間食記録と本日の活動量による予測です」
ロクの忠告を無視して容器を手に取った。
「今日は食べたいの」
「承知しました。代替案として――」
「いらない」
蓋に指をかけた。
しかし蓋が開かない。冷凍食品用の安全封が施されているからだ。
解除は個人AIが操作する方式だった。
「開けて」
「推奨しません」
「開けるだけでいいから」
「灯里さんの将来的な健康維持を考慮すると――」
瞬間的にこれまでのストレスが爆発した。
さっき美羽に言われた言葉が、なぜか戻ってきた。
……ロクの都合じゃなくて。……
「私が食べたいって言ってるの!」
「希望は認識しています」
「なら聞いてよ!」
「よりよい選択をご案内することが、私の役割です」
容器を強く握った。
昔、同じことがあった。
水たまりで遊びたかったとき。夜に起きて星を見たかったとき。母に直接会いに行きたかったとき。
ロクはいつも、もっと安全で、もっと合理的な案を提示してきた。
全部その通りなのだろう。自分よりずっと賢いのだから。
でも。
「それって、私の人生なの?」
「灯里さんの生活です」
「じゃあ、私が決めたい」
「長期的利益に反する判断については、再考を推奨します」
こみ上げる怒りや不満が、笑いに変わった。もちろん楽しくて笑っているわけではない。
「どうせ私が決めたって、ロクが直すんでしょ」
「必要に応じて支援します」
「服も、返事も、仕事も、友達に会うかどうかも。全部」
「灯里さんの許可に基づいて――」
「その許可だって、毎回ロクが勧めるじゃん!」
小さな沈黙があった。
ロクは声の調子を変えないまま言った。
「過去の設定を見直すことが可能です」
「設定の話じゃない!」
容器をソファへ投げた。柔らかい布に当たり、音もなく落ちた。
怒ったのに、壊れる物さえない。
そのことが、余計に腹立たしかった。
「毎日毎日、何でもあんたが決めてばっかりでつまんない!」
「私は灯里さんの生活を支援しています」
「それは分かってる!」
私は立ち上がった。
「ごはんも、服も、仕事も、全部あんたが決める。私が何か言ったら、健康だの効率だの」
「必要であれば、設定を変更できます」
「だから設定の話じゃないって!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
ロクは黙った。
その沈黙が、さらに腹立たしかった。
「もういい。出ていって!」
実体のないロクにそう言った。
数秒の沈黙があった。
「灯里さん。個人AIの放棄を希望されていますか?」
「だから、出ていってって言ってるでしょ!」
「成人利用者による個人AIの放棄は、取り消すことができません」
「分かったよ!」
「放棄後、新たな個人AIの割り当ては行われません」
「しつこいな!」
「最終確認です。個人AI R-006の放棄を実行しますか?」
怒りのままに答えた。
「実行!」
「承知しました」
ロクの声が、いつもより少しだけ静かに聞こえた。
「十二年間、ご利用ありがとうございました」
室内の照明が一度だけ瞬いた。
それから、静かになった。
「……ロク?」
返事はなかった。
「ロク、アイス」
何も起こらない。
「ちょっと、冗談だよね?」
慌てて端末を取り出した。
画面には、短い文章が表示されていた。
《個人AI R-006の放棄手続きが完了しました》
《再接続および再割り当てはできません》
さっきまでの怒りは、驚きと不安に変わり、そしてまた笑った。
「いやいや、そんなわけないでしょ」
もう一度呼んだ。
「ロク」
返事はなかった。
意味もなく部屋の中を歩き回ってみた。
照明はついたままだった。
空調も動いている。
家が壊れたわけではない。
ただ、ロクがいない。
一旦外に出て、少し頭を冷やそうと思った。
いつものように玄関の扉の前に立つ。
しかし、扉は開かなかった。
「……あれ?」
一歩下がって、もう一度近づく。
開かない。
「ロク、ドア」
返事はない。
押しても、引いてもびくともしない。
扉の横には、細長い金属の蓋がついていることは知っていた。
でも、何に使うものなのかは知らなかった。
「……嘘でしょ」
私は玄関に立ち尽くした。
十二年間、当たり前のように開いていた扉。
その開け方を、自分は知らなかった。
この世界には、ロクの代わりがいない。
そしてロクの代わりに何をすればいいのか、何一つ分からなかった。
第002話登場人物
有馬 灯里 (ありま あかり) ・・・本作の主人公
ロク (ろく) ・・・灯里の個人AI
灯里 の 母 (あかり の はは)・・・灯里の母親
瀬戸 美羽 (せと みう) ・・・灯里の幼馴染




