第001話 灯里とロク
たった一個のアイスクリームを食べたくて、私は十二年間一緒だったAIに「出ていけ」と言った。
そして、自分の家の玄関さえ開けられなくなった。
それが、後に人類の未来にまで関わることになるなど、そのときの私には想像もできなかった。
――人類は、考えることをやめた。――
それがいつから始まったのか、正確に答えられる者はいないだろう。
人類は、長い歴史の中で数え切れないほどの困難を乗り越えてきた。
飢えを克服し、病を退け、空を飛び、ついには自らに代わって思考する存在を生み出した。
人工知能。
それは、人類が手に入れた最も優秀な道具であり相棒だった。
人々が担う仕事はごく僅かとなり、危険を冒す必要もなくなった。あらゆる問題には最適な答えが用意され、失敗さえも未然に防がれるようになった。
誰もが、それを❛❛人類の勝利❜❜だと信じていた。
だが、その勝利が何を意味するのか、当時の人々はまだ知らなかった。
人類は、あらゆる不自由から解放された。
そしていつしか、自分たちが何を失ったのかさえ、分からなくなっていた。
そんな時代に、一人の少女が人工知能と喧嘩をした。
理由は、たった一個のアイスクリームだった。
「灯里さん。起床時刻です」
私は、目を閉じたまま答えた。
「あと五分だけ」
「五分後では、予定されている睡眠周期との整合性が低下します」
「難しいこと言わないでよ」
「では、照明を徐々に明るくします」
寝室がゆっくりと明るくなる。
カーテンが開いて朝日が部屋に差し込み、また照明がゆっくりと暗くなる。
室温は二十四度。
湿度は五十パーセント。
私が最も快適に目覚められる環境だった。
「おはようございます、灯里さん」
「おはよう、ロク」
ロクは、私の『個人AI』だった。
私が六歳になった日に割り当てられ、それから十二年間、一度も離れたことがない。
姿はない。
必要なとき、家の設備や端末を通じて声が聞こえる。
私の生活は、ほとんどすべてロクが管理していた。
「本日の朝食は、全粒粉パンと卵料理、温野菜です」
「昨日と同じじゃん」
「昨日は、パンの種類と野菜の組み合わせが異なります」
「そういう意味じゃなくて」
「変更しますか?」
「ううん、いい」
ベッドから起き上がった。
寝室を出ると、洗面台には適温の水が用意されていた。
歯磨きの時間は自動で計測される。
シャワーの温度も、服の組み合わせも、ロクが決めた。
鏡を見ると、ロクが健康状態を判定する。
「十八歳。
健康状態は良好。
体重は適正範囲。
昨夜の睡眠の質も、平均を上回っています」
自分では何も分からなかったが、ロクがそう言うのだから間違いないのだろう。
壁に小さな通知が浮かんでいた。
《成人後生活移行プログラム 七十三日目》
その数字に指を伸ばした。通知は指先の動きを読み取り、今日の行動予定へ変わった。二年前から同じ場所に行動予定が表示され、成人後にプログラムの経過日数が追加された。
人は十八歳で成人する。十五歳からは個室での居住が推奨され、十八歳になれば個人AIの管理下で社会参加を始める。食事も衣服も職業も、その人の希望を聞いたうえで、AIが最も合理的な道を提案してくれる。
私は、それを不思議に思ったことはなかった。
「ママから連絡あった?」
「あります。昨日の二十一時四分に、体調はいかがですか、という確認を受信しています」
「返事したっけ」
「送信済みです」
「何て?」
「『元気だよ。今週も研修、頑張るね』です」
鏡の前で手を止めた。
「私、そんなこと言った?」
「過去の文体と現在の生活状態から作成しました。先週、返信作成を一任する設定を承認されています」
「ふうん」
ママの顔を思い浮かべようとした。写真ならすぐ出せる。映像も山ほどある。でも、ママと最後に何を話したかは、よく思い出せなかった。話そうと思えば話せるから、別に困らない。
「じゃあ私も何か送る」
「承知しました。音声入力を開始します」
「えっと……」
何を言えばいいのだろう。
「元気。……それだけ」
「そのまま送信しますか?」
「いや、やっぱりいつもの感じで」
「承知しました」
歯ブラシを置いた。
自分の言葉で何か送ろうとしたのに、それ以上の言葉が思いつかなかったことが、少しだけ気になった。
でも、すぐに忘れた。鏡に映った自分の髪形が気になったからだ。
「これ、昨日と同じ」
「昨日とは前髪の分け目が二ミリ異なります」
「そこじゃない」
「別案を提示します」
画面に四つの髪形が並んだ。私は最後の一つを指した。
「これがいい」
「気温と研修相手への印象を考慮すると、一番目を推奨します」
「そう、じゃ、それでいいや」
数分後、鏡に映っていたのはいつも通りの自分だった。
自分で選んだ気がした。実際には、何を選んでもロクが最後に整えるのだけれど。
昼休みには同い年の瀬戸美羽からフェイス通話が入った。
美羽とは義務教育の頃、同じ学習区画にいた。通学と呼んではいたが、教室で並んで授業を受けた記憶はほとんどなかった。
それぞれの理解度に合った内容が、それぞれの端末に届いていたので、隣の席の子が何を学んでいたかさえ知らない。
それでも美羽とは、ときどき直接会う友達だった。
「ねえ、灯里。今日の夕方、会わない?」
「何するの?」
「別に。話したいことがあるだけ」
「通話でよくない?」
「そうだけど、会って話したいの」
少し考えた。
「ロク、今日会える?」
「夕方の自由時間は九十四分あります。ただし、移動を含めると推奨会話時間を下回ります」
「じゃあ無理か」
そう答えると、美羽は困ったような顔をした。
「灯里はどうしたいの?」
「だから、時間ないって」
「ロクの都合じゃなくて」
「私の都合も同じだよ」
美羽は何か言いかけて、やめた。
横顔に青い光が走った。美羽のAIが言葉を選んでいる合図だ。
「分かった。また今度ね」
「うん、またね」
通信が切れたあと、ロクに尋ねた。
「美羽、怒ってたっぽい?」
「不満を感じた可能性は四十一パーセントです」
「思ったより低いね」
「関係維持のため、謝意と次回候補を送信しますか?」
「お願い」
わずか数秒で、用事は済んだ。
そのとき胸に残った小さな引っかかりを、何の感情と呼べばいいのか私には分からなかった。
居住棟の南側には、大きな透明な壁がある。
街を取り囲む気候防護幕の内側で、樹木は一年中均等な緑を保っていた。窓から見える庭には花が咲き、動物の映像が適切な間隔で現れた。人間に危害を加える可能性のある野生動物は、外縁の生態保護区に隔離されている。
幼い頃、「壁の向こうに行きたい」と言ったことがある。
ロクは、外部環境の危険性を説明した。
食料や水が自動で供給されないこと。気温の変化が大きいこと。動物は人間の安全を考慮して動かないこと。
その時から行きたいとは思わなくなった。
映像で見る自然は好きだった。泥で汚れず、虫にも刺されず、雨に濡れない。
何より見たくないものは消せる。
だが、その日の夕方、美羽から、今度はメッセージアプリで写真が届いた。
土の上に落ちた、丸い赤い実。
小さな川を跨ぐ、古い石の橋。
そして、灰色の空の下で笑う一人の少女。
《このあいだ、本物の外に行ったんだ》
すぐに写真を拡大した。
《危なくないの?》
《危なかったよ。転んだ》
《なんでそんなことしたの》
しばらくして返ってきた言葉を、私は理解できなかった。
《面白かったから》
危険なのに面白い。
失敗したのに楽しい。
その組み合わせが、私には何より不自然に思えた。
「ロク。転んだら痛いよね」
「はい」
「じゃあ何で楽しいの?」
「達成感、刺激、予測外の体験などが要因として考えられます」
「ふうん」
答えを聞いても、すっきりしなかった。
美羽が写っている写真だけ、保存した。
第001話登場人物
有馬 灯里 (ありま あかり) ・・・本作の主人公
ロク (ろく) ・・・灯里の個人AI
灯里 の 母 (あかり の はは)・・・灯里の母親
瀬戸 美羽 (せと みう) ・・・灯里の幼馴染




