第8話 新緑の少女(前)
——ちょうど、百四十六年前だ。百四十六年と、八十二日前。レクナスは思い出す。
◇
木々が若葉をつける頃。輝く森の中に、十歳ほどの少女が立っていた。
その前に、黒い人影が落ちている。
「あなたは、神様、ですか?」
少女は瞳を丸くして目の前の人影を真っ直ぐに見つめていた。鈴の音のような澄んだ声。彼女の長い髪を風がさらう。
「君が、私を呼んだのか?」
彼——レクナスは緩慢に顔を上げる。目が合った。随分、若い人間だ。
「分かりません。ここで、祈っていたのです。そうしたら、あなたが」
少女の足元には、古びた書物が開いて落ちていた。流麗な文字で、祈りの言葉が綴られている。
「ああ、それを使ったのか?」
その文字と図形に、見覚えがあった。アレリナの奴が、ずっと昔に気まぐれに地上に紛れ込ませた物だ。回収するのを忘れていたか、とレクナスは心の中でため息をつく。
地上に来るのは好きではなかった。地上に姿を見せると、彼はいつも人々から忌避される。彼はいつでも、死と共にある者だから。
人間からは、死を呼ぶ神と怖れられるようになった。彼らがレクナスの存在を認識してから、怖れられるようになるまでに、そう時間はかからなかった。
——彼が死を呼ぶのではなく、死のほうが彼を呼んでいるのだというのに。弁明しようとしても無駄だった。
仕方がない、因果というのは人類には難しい概念なのだ。彼らはいつも、原因と結果を見誤る。レクナスはもはや諦めていた。そしていつしか彼は、ひとり地下の冥界に引きこもるようになる。
アレリナはそんな塞ぎこんだ彼を連れ出そうと、度々お節介を焼いた。何かにつけて冥界を訪ねてくるアレリナを、レクナスは何度も忌々しげに追い返した。
少女が持っていた書物も彼女の企みの一つだ。地上の人間が彼を呼び出す鍵のようなもの。
彼女が面白半分でばら撒いたそれを、レクナスは全て回収したつもりだった。その先々で、怖れの目を向けられながら。レクナスがそのことを非難すると、アレリナは笑って言った。——お前も、ずっとひとりは寂しいだろう?
レクナスは脳裏に浮かんだアレリナの赤い瞳を追い出すように頭を振る。少女は不思議そうにその様子を見ていた。
彼は少女に歩み寄り、彼女の頭に手を伸ばす。ぽんぽんと、頭を撫でた。彼女の前にしゃがみ込んで、その顔を覗く。
「それで? 君の願いはなんだい?」
「……願い、ですか?」
「そうさ、祈っていたんだろう? 聞いてあげよう。私に叶えられるかは、分からないけど」
レクナスはひらりと手を差し伸べる。少女は、その白い手のひらを眺めて首を振った。
「いえ、それはもう叶いました」
少女は嬉しそうに、差し出されたレクナスの手を両手でぎゅっと握る。
「叶った?」
はい、と彼女は勢いよく頷いた。
「私はただ、私たちを見守ってくれている神様に、ひと目お会いしたかったのです!」
彼女の瞳は輝いていた。レクナスは、彼女の丸い瞳の中に映る、自分の真っ黒な姿を見る。
「私に? ——ああ、残念だけど、それは始の神の間違いではないかな。君たちに祝福を与えるのは、彼女の役目だ」
少女はきょとんとしてレクナスを見た。
「でもあなたは、死者の神様でいらっしゃいますよね? だって、こんなに美しくて黒い髪、きっとそうです!」
少女はレクナスの長い髪に手を伸ばす。宵闇のように深く艶やかなその髪は、はらはらと、初夏の風に揺れた。
「あなたが、私たちの人生を、見守ってくださっているんですよね?
司祭様から、聞きました。私たちの行いは、いつも終の神さまに見られているんだよ、って。死んだらみんな、終の神さまの元で裁かれる、って! それって、そういうことでしょう?」
レクナスは戸惑いを誤魔化すように咳払いする。
「……そうだ、私は死者を迎える、冥界の王。いつだって君たちを見ている。——でもそれだけ、たったそれだけのことだよ」
レクナスは寂しげに微笑んで、少女の頬をそっと撫でる。しかし少女は、そんなレクナスの様子など意に介さず、嬉しそうに跳ねた。
「やっぱり!
もう私は、一人ではないのですね! いつだってあなたが、私のことを見てくださっているんですから!」
レクナスはたじろぐ。こんな反応をされるのは初めてだった。いつも彼に向けられるのは、畏れや恐怖の目ばかり。それなのに、この明るい瞳は何だ? きっとこの子は幼いから、コトが分かっていないのだ。
「カリン! そこで何をしているんだい? もうお昼の時間だよ、戻っておいで!」
街の方から、教会の司祭が呼ぶ声が聞こえる。少女は声のした方に向かって、はーい、と返事をして、レクナスの方を振り返る。
「あの、また、お会いできますか?」
若緑色に輝く木漏れ日が、彼女に降っている。
静かな黄金色にきらめくその澄んだ瞳に、レクナスは思わず頷いていた。




