第6話 始の神
◇
天界——全ての生命が始まる場所。
そこは冥界とは対照的に、光に満ち溢れた場所だった。軽やかに駆ける精霊たちが、天界の王の名を呼ぶ。
「アレリナ様、もう朝ですよ!」
「ああ、今日はニーナか。おはよう」
アレリナと呼ばれた彼女は、たくさんの白いリネンに包まれ、ベッドに横になったまま大らかに顔を上げる。
彼女は、ここ天界の王。地上では『始の神』と呼ばれる、レクナスと対をなす存在。
「お急ぎください! 今日も仕事がたくさんあるんですから」
「そう怒るなよ、かわいい顔が台無しだ」
アレリナはゆるゆると起き上がりながら笑いかける。栗色の長い髪がさらりと揺れ、身体を滑る。そのまま緩く衣服を纏い、ニーナに近づくと頬にキスをした。
「いつもそうやって誤魔化すんですから!」
ニーナは顔を赤らめる。アレリナはそれを意にも介さず、話を続ける。
「今朝はどこに行こうか?」
「……神殿にお向かいください。今日も人類が始の神様の祝福をお待ちです」
彼女はぱたぱたと慌ただしくスカートを払いながら、アレリナに伝える。
「最近は人間が増えてきたからね、毎日毎日人間の生ばかりでつまらないよ」
腰まで届く長い髪を束ねながら、アレリナはため息をつく。
「そろそろまた新たな『概念』でも生みたいものだけれど——レクナスが許してくれないからなあ」
「そういえば最近、レクナス様は天界にお見えになっていないですね」
「そうだね、彼はたいてい冥界に引きこもっているから。あいつは私のことが嫌いなんだよ。……前に、私が『時間』を生み出したことをまだ根に持っているんだ」
彼女は目を伏せる。その長いまつ毛に天界の眩しい光が落ちる。
「時間、ですか?」
「そうか、ニーナはそれより後に生まれたんだったね。まあ、今の世のほとんどのものはそうか」
時間——それはアレリナがこれまでこの世に生んだものの中でも最も影響力の大きなものの一つだった。世界のあり方を、根本から変えるもの。
彼女は一瞬目を閉じると、小さく息を吐いた。地上から届く『祈り』のざわめきが彼女の意識を叩く。
アレリナは、明るい声を上げる。
「さあニーナ、行こう! 先に『祈りの丘』に寄った方が良さそうだ」
◇
『祈りの丘』は、光に満ち溢れた場所だった。地上のすべての『祈り』が届く場所。
数えきれないほど多くの祈りが、折り重なり溶け合って、この地を満たしている。
ここに集まる祈りを、受け取ることが彼女の日課だった。降り注ぐ祈りを聞き分け、そして聞き届ける。地上に祝福を与え、時に『奇跡』を起こす。
アレリナが丘を登ると、そこには見慣れないふたりの影があった。それは彼女のよく知った背中。思わぬ来訪に、彼女は嬉しそうにその名を呼ぶ。
「レクナス? レクナスじゃないか!」
声をかけられた彼はゆっくりと振り返った。
「アレリナ、久しぶりだね」
そう応えるレクナスの声は硬く響く。それでも、アレリナの声は弾んでいた。
「ああ、ずいぶん久しいな。珍しいね、こんなところまで」
「本当はあまり来たくないんだけどね、どうせすぐに終わらせるとわかっているものを見るのも、辛いものだ」
地下の冥界に居を構える彼が、天界を訪れることは稀だった。その中でも、この祈りの丘は最も足の遠のきがちな場所の一つだ。
死者を迎える彼にとって、生者の祈りはあまりに眩しく、触れるたびに胸の奥のどこかが焼けるようだった。
彼の中に溜まった、叶わなかった祈りの記憶の堆積が、降り注ぐ祈りに触れるたびに、疼く。受け取った無数の無念が、嫉妬や羨望が、生を拒むようにざわめいた。
ここにくると彼は、いつも少し鼓動が速くなるように感じる。
「今日はどうして?」
「……あんまり祈られちゃ、無視もできない。何もできなくても、たまには受け取ってあげないと。彼らは時に、どこまでも過激になるからね。
——私のせいで生贄にされる娘など、見られたものじゃない。しかも、そんなことにはなんの意味もないのに。そんなの最悪だよ」
そう言ってそっと彼はカリンを見る。カリンが彼の元に来た時、地上は歴史的な旱魃に見舞われていた。
アレリナは彼の視線を追う。
「——君も、元気そうでよかった!」
アレリナはカリンの目線に合わせて身をかがめ、微笑んだ。
アレリナの頭に、かつて必死の形相で自分の事を訪ねてきた、レクナスの顔が浮かぶ。
彼女はよしよしとカリンの頭を撫でながら、レクナスの顔を見上げる。
「ああ懐かしいな、あの日、君がこの子を……」
「アレリナ!」
レクナスはアレリナの言葉を遮る。カリンは不思議そうにふたりを見上げていた。
「ごめんごめん、そう怒るなよレクナス。つまり私は全ての生命の始まりだと、そういうことだ」
アレリナはカリンに向かって片目を瞑ってみせた。
「たまには遊びにおいで。君も私の可愛い娘なんだから」




