第5話 冥王レクナス
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冥界。いつものように審判に向かいながら、柔らかい闇の中で、レクナスはふと足を止めた。
地上から届く怯えた視線。恐怖と共に呼ばれる、歪んだ名。全てが自分を指していながら、とても自分のこととは思えない。
地上に這うあらゆる恐れが、彼の中を駆け抜けた。
「……私は、何もしていない。何も、できないんだ」
誰に向けたとも知れぬ呟きが、闇に溶ける。彼の背を、冷たい風が撫でた。長い長い、仕事が始まる。いつもと同じように、彼は一つずつ、死者の名を呼ぶ。
◇
「レクナス様、お勤めお疲れ様でございました。お戻りをお待ちしておりましたよ」
長い審判から戻ったレクナスを、カリンは一礼して出迎える。
「ありがとう、カリン。あーあ、今日も疲れたよ」
レクナスは気怠げに首を傾げながら肩を揉む。彼の顔は沈んでいた。
「お疲れのお顔ですね、もう少しお休みされてもよろしいのに」
彼女はお茶を入れるために湯を沸かしながら、レクナスの方を心配そうに見る。
「自分で決めたことだからね。どうせ彼らの人生を見るなら、それを受け取って、受け止めてあげようかな、と」
彼はぼんやりと天井を見上げる。
本来、死者に裁きなど必要ない。それでも、初めて死者と対峙したとき、彼はその目に期待を見てしまった。
それは、自分のすべてを知っている、『全知の存在』への期待。長い人生の旅の果てに出会った存在に、救いを求める目。
その目を見た彼は、死者たちの渇望するものを、与えてやりたいと思ったのだ。今まさに無に帰す彼らの人生の『意味』の実感を。
「彼らはどうしようもなく愚かだと思うけれどね、私は、これでも、彼らのことが結構好きなんだ。だってみんな短い人生を、一生懸命生きていて、愛らしいと思わないかい? せめて終わりくらいは、安らかであってほしいと思うよ。救われてほしいとね」
「レクナス様、らしいですね」
彼女はお茶を注いだカップを持って、彼の隣に座る。ありがとう、と言ってレクナスはそれを手に取る。
「ようやく一息付けそうだ、あまりにも死者の数が多くて、ここしばらくは眠る暇もなかったからね」
急な災害で、大量の死者が出た。しかもみんな、思いがけず、突然に命を落としたのだ。死者の魂は、皆一様に普段よりも沈んでいた。
地上に残してきたものへの執着。本来あるはずだった未来への未練。こんな運命を与えた神への、怒り。
そんな湿った想いを、レクナスは受け止め続けた。彼には、ただ受け止めることしかできないから。
その湿りを吸って、少しずつ、彼の心も重くなる。心から、ひたひたと、重い雫が溢れる。
「……みんな、私は傷ついたりしないと思っているんだ。傷つくなんて、思いつきもしない」
レクナスは言う。カリンは彼の隣に座っていつものように静かに耳を傾けていた。微かに触れた腕から、レクナスの低い体温が伝わる。
「私は彼らの神だからね。仕方ない、それくらいの責任感は持ち合わせているつもりだ。——でも、私にだって感情はある。痛いし、苦しいよ」
レクナスは、ふーっと息を吐いた。小さな膝の上に揃えられたカリンの手に、そっと自分の手を重ねる。
「ごめんね、カリン、こんな話ばかり。いつも君にばかり負担をかけてしまう。私は、弱いからな」
「いいえ、レクナス様は、弱くたっていいのです、それがいいのです!」
カリンは首を振る。
「私にしか話せないと言うなら、いつでも私にお話しください。私にはお聞きすることしかできませんが、いくらでも相手になりましょう。私は、あなたの話が聞きたいのです」
「ありがとう、カリン。私に君がいて、本当に良かった。君も毎日疲れているだろう? もっと休ませてあげたいものだけど、私に付き合わせて、ごめんね。
——あーあ、たまには私たちも、ふたりでバカンスにでも出かけたいものだね」
と、言葉を切った彼は不意に、目を輝かせカリンに視線を向ける。ぐっと彼女の手を握ると、明るい声を出す。
「そうだ! 久しぶりに一緒に天界に行こうか。
あそこはいつでも美しいけれど、そろそろ花梨の花も咲いている頃じゃないかなあ。
そろそろ行かないといけないと思っていたんだけど、私ひとりだとどうにも腰が重くてね。ついでにふたりで一休みしてこようよ」
「お気持ちは嬉しいですが、レクナス様は平気ですか? ただでさえご多忙でお疲れなのに、天界に行くだなんて」
レクナスが天界を好んでいないことを、カリンは知っていた。出かけなければいけない用事があるときも、できるだけ先延ばしにしようと、彼はいつも、子供のようにあがくのだ。
それでも彼は、カリンにとっては、こんな昏い冥界よりも、光にあふれた天界のほうが好ましいだろうと、無邪気に信じているようで、時々こうして連れ出そうとする。
そんなレクナスの優しさが、カリンは好きだった。彼女は本当は、彼のいるこの静かな冥界が気に入っているのだけれど。
レクナスは、自分を心配そうに見上げるカリンの頭を優しく撫でる。
「いいんだよ、どんなに疲れたって、私は人間のように死ぬことはないんだ。それに、どうせ近いうちには行かないといけない」
「死なないとは言っても、病気にならないわけではないのですよ、あまり酷使しては、お身体に障るんですからね」
「いいじゃないか、少しくらい大丈夫だよ、君と一緒に行きたいんだ……だめかな?」
自分を見つめる瞳と目が合い、カリンは息を飲む。
「もう、そんな顔しないでください。……分かりました、参りましょう」
カリンはしぶしぶ、というように承諾する。レクナスはそんな彼女を抱きしめた。
「ありがとう! では明日は仕事を早めに切り上げて帰ってくるよ! 支度しておいてくれ」
レクナスは嬉しそうにそう言った。彼の腕の中で、カリンもまた微笑んでいた。




