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第2話 審判の間



「さて、そろそろ仕事に行かないと。カリン、いい子でね」


「はい、お気をつけていってらっしゃいませ」


 レクナスはカリンの頭を撫でると、いつものように真っ黒なマントを羽織り、部屋を後にした。彼の足音が、冥界の暗闇にひた、ひたと反響する。


 彼が向かったのは、冥界の最奥、大広間。そこは広く、暗い空間。簡素ながら豪奢なその部屋の奥には、一つの玉座ががらんと鎮座している。分厚い絨毯が彼の足音をすべて吸い込む。


 重い静寂が支配するその場所には、無数の光の粒が、所在なげに漂っていた。地震によって、肉体を失ったばかりの魂たち。

 レクナスは、彼らには目もくれず、玉座へと歩み、ゆっくりと腰を下ろす。真っ直ぐに顔を上げ、ぐるりと広間を一望した。深く、息を吸う。

 彼は、低く重い声で告げる。


「——お前たちの生は、今尽きた。ここは死者の国、私は冥界の王である」


 死者を導く、冥界の王の威厳に満ちた佇まい。カリンの前で見せていた、先ほどまでの不貞腐れた態度は、完璧に消えていた。


「地上での行いはすべて、この冥界で清算されると心得よ。お前たちの生が、お前たちの死を定義する。この私が、順にお前たちの話を聞こう」


 ざわめくように、そわそわと魂の光が揺れる。

 自分の置かれている状況が、理解できない。さっきまで自分は、見知った世界に生きていたはずでは? ここはどこだ? 自分は死んだというのか? そんなはずは、そんなこと——


 揺れる光たちを、レクナスは鋭い目で見つめる。その目には有無を言わせぬ力があった。


 神の視線に射抜かれ、彼らはふるふると震える。まだ理解の訪れない者たちも皆、それでも何か厳かな気配だけは感じ取っていた。

 ——自らの目の前に立つ、これが、我らの神か。


 レクナスは静かに口を開く。


「では、お前から」


 彼が手をかざすと、一つの光が引き寄せられる。レクナスの元へ導かれたその光は、生前の姿へと形を変えた。同時に、空間が歪み、ふたりの元から広間のざわめきが遠のく。


 審判の間——暗く、しんと静かなふたりきりの空間。


 この状況に戸惑いを隠せない人型(ひとがた)に、レクナスは簡潔に問う。


「お前の名は?」


 まだ若い青年、ディオは、レクナスを睨みつけていた。


「……お前は、神なのか? 本当に?」


「私はこの冥界の王。神と呼ぶ者もいる」


 簡潔なその答えに、しかし彼は大きく首を振った。叫ぶように否定する。


「違う! お前など、神ではない! だって、俺の知っている神様の姿と違いすぎる! ここで裁かれるなんて、とても納得できない!」


 レクナスは、青年の叫び声に動じることはない。眉ひとつ動かさず、淡々と問いかける。


「お前の信じる神は、どのような者であったか」


「天に住まわれる女神様だよ! 俺は、毎日祈った。戒律を破ったこともない!

それなのに、それなのに、あの地震で……突然死ぬなんて。その上これじゃ、意味がないじゃないか!」


 若者は頭を抱える。レクナスの黒い瞳が、そんな彼の姿を見下ろしていた。


「お前は、()く生きたというのだな。悔いることは、何もないか」


「それは……時々はサボったりもした。でも他人に迷惑はかけてねぇ。親父に言われてたんだ。他人様(ひとさま)に迷惑だけはかけるなって」


 レクナスは頷いた。青年にそっと声を掛ける。


「ディオ」


「……な、なんで俺の名前を?」


 名を呼ばれた彼は、目を丸くする。


「私は、すべてのことを知っている。お前が生きた人生も。お前が毎日、熱心に女神様に祈りを捧げていたことも。

 お前の信じた神は、私ではないかもしれない。だが、お前があの災厄の中、幼い子供を守ろうと手を伸ばした瞬間、私は確かにお前の隣にいたよ」


 青年は息を吞んだ。

 レクナスは、全知の神であった。地上の全てを観測する(すべ)を持ち、そしてこの冥界にあって、訪れた全ての魂の記憶を受け取る。その彼は今、ディオの人生を、全て理解していた。そして彼は、その理解を以て裁きを下す。

 レクナスは少しだけ、声を和らげた。


「お前のことは、善き者と裁定しよう。冥界の野で、然るべき時を待ちなさい」


 ディオはまだ不満げな表情をしている。


「然るべき時って何だよ」


 レクナスは優しく答える。


「お前が、自らの行いに誇りを持てるようになる時だよ。時が来れば、分かる」





 次に姿を見せたのは、中年の男だった。レクナスは、彼に相対し、その名を問う。


「お前の名は」


「カ、カシハと申します」


 彼は震えながら、レクナス——自分を殺したと信じている神——を、上目遣いに見ている。


「カシハ、お前の生はどうであったか。悔いていることは、あるか」


「いえ、誇ることはありませんが、善良に、生きてきたつもりです。神を信じ、祈ってきました」


 言葉と同時に、レクナスの思考に、カシハの記憶が奔流となって流れ込む。


 信心深い農夫としての、安らかな記憶。そして、その裏に沈んだ暗い記憶。どちらも、確かに本物だった。

 病弱な息子を捨てた、一瞬の、しかし消えない記憶。治ることのない病。貧しい暮らし。そして下した決断。

 隠すように奥深くに押し込まれ、一際強く根を張った、消えることのない黒い後悔の記憶が、レクナスの思考にはっきりと映る。


「……お前の、息子については?」


「息子、ですか? ……可愛い息子でした。もっと、一緒に生きていたかった」


 カシハの目が揺れる。『自分は悪くない』と訴えるように。


 レクナスは、彼を責める気にはなれなかった。やむにやまれぬ決断。人間とは皆、弱いものだ。だが、この場所では、どんな奥底にしまいこんだものも、全てが冥王の前に開かれる。


「良かろう、ではお前は牢屋行きだ」


 レクナスは迷いなく言い渡した。カシハは顔を赤くして反論する。


「なぜですか! 私は、私は神典の教えを守って生きてきたのに! この程度の、ことで」


 レクナスは悲しげに一つ息をつく。

 『この程度のこと』——そのように思えていないのは、誰よりも、自分自身だというのに。この者は、それに気づこうとしないのだ。

 人間はいつだって、自分自身を偽る。苦しみを見ないようにと目を逸らして、そうして逆に、自分を苦しめる。彼はずっと、そんな人間たちを見てきた。


「理由など述べる必要はない。お前は、既に分かっているようだ」


 レクナスは意識的に冷たい声を出す。

 問題は、犯した罪ではなく、自分自身にすら嘘をつき、本来そこにあるべき悔いを遠ざけてきたこと。


 死後に訪れる冥界において、本来、罪に報いを与える必要などない。それを見て溜飲を下す被害者も、罰を示して維持しなければならぬ治安も、この冥界には存在しないのだから。

 それでも、目を背けた後悔を直視しなくては、彼の魂は、救われることはない。それはレクナスの信念だった。

 生命はもう尽きたのだ。ここにあるのは自分自身のみ。恐れることなど、もはや何もない。覆い隠してきたものを、見つめなければならぬ。冥界の牢は、そのために彼が作った、死者の居場所だ。

 

「焦ることはない。お前が善良であったことも、神を信じてくれていたことも、私はすべて知っている。

安心して悔い、己を直視せよ。冥界の牢に時はない。ここでの時間は、無限にして一瞬、一瞬にして無限。いくらでも、その機会はある」


 項垂れるカシハが、影に引かれていくのを、レクナスは見送った。


 彼は内心で、深いため息をつく。

 彼ら一人一人の記憶を受け取ることは、彼らが経験した苦痛や未練を、幸福や喜びを、追体験することと同義だった。彼らの隠したいものも、何もかも全てを暴き出す。


 人の数だけ、無数の人生がある。それは、永遠である彼にとっては、一瞬に近しいような短い時間。それでも、何度繰り返しても、完全に慣れるということはなかった。


 次から次へと続く魂の列。レクナスは、彼らの記憶を受け取り続ける。


 神だとて、終焉を司る彼には、死んだ者を生き返らせることはできない。起きた天災を消し去ることもできない。彼は、無力であった。


 彼らの記憶の重荷を共に背負うことだけが、自分にできる唯一の仕事だと、彼は思っていた。

 レクナスは、胸の中に溜まる重たい祈りと怨嗟(えんさ)の感覚を押し殺しながら、次の死者の名を呼ぶ。


 ——これで、いいのだろうか。


 審判の後、レクナスはいつも考える。私のこの役目は、必要だろうか。こんな風に裁くよりも、死んだものから順に、ただ次の生へと引き継ぐ方が良いのではないか。自分が救いだと信じているものは、ただの独りよがりではないだろうか。

 しかしいつも、何度考えても、答えは出なかった。

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