第1話 大地が揺れた日
大地が、鳴り響く。
ほんの今まで、固く街を、人々を支えていた地面は、嘘のようにうねり、歪み、牙を剥いていた。自分の上に暮らすものを、なにもかも振り落とそうとするかのように、ぐらぐらと揺れる。
小さな人間には、為す術もなかった。動くこともできず、ただ、抗えない大きな力に、揺さぶられるがまま。
何が起きているか分かる者は、ここにはいなかった。理解の訪れぬまま、ただ恐怖だけが心に宿る。
色鮮やかなバルコニーに並んだ植木鉢が、落ちる。ガシャンと嫌な音がした。柱が倒れる。建物が崩れ落ちる。
街区に、火の手が上がった。荒ぶる炎が屋根を撫で、所狭しとひしめき合う家々に、広がってゆく。街が、焼け落ちる。
空に、黒い影が見えた。
聖教祭の朝。一年のなかで、一番重要な祝祭の日だった。そのために信徒たちは皆、早朝から教会に集い、神へと感謝の祈りを捧げていた。
——なのに、そのはずなのに、こんな日に、なぜ?
教会では燭台が揺れ、聖像は倒れて重なり合う。折り重なる叫び声が響き渡る。
砕けた建物が粉塵となって舞い、通りに降り積もる。崩れ落ちた建物、燃え続ける街。甲高い声が響く。怒声が轟く。
「ねえ、あそこに、まだ、うちの子がいるの!」
「助けて!! お願い!!」
「早く逃げろ!」
立ち上る煙を追うように、人々は天を見上げる。黒いマントを纏った影がぼんやりと見えた。表情は見えない。しかし確かに、炎に照らされた街を見下ろしている。
——『終の神』
彼は人々からそう呼ばれていた。
死のあるところに、彼は現れる。
「ああ、終の神様が、お怒りだ」
「どうか、どうか、怒りをお鎮めください」
人々は天へと祈った。怯える瞳。震える声。
彼は動かない。ただ天に在り、地上を見下ろしていた。
◇ ◇ ◇
地上の喧騒を背に、終の神と呼ばれた影は闇の中へと沈む。彼の帰る地——冥界の空気は、いつも通り冷たく、そして静かだ。
「ただいま、カリン。いい子にしてたかい?」
終の神——レクナスは、真っ黒なマントをするりと脱ぎながら、出迎えた使いの精霊に声をかける。
手を伸ばした彼の白い指が、彼女の短い髪を撫で、その毛先は小さく揺れた。まだ微かに、地上の焦げた煙の匂いの残るマントを、彼女は慣れた手つきで受け取る。
「見たかい? 地上ではまた、私のせいにされているようだよ」
彼はそのままベッドに身体を投げ、天井を仰ぐ。長い黒髪が真っ白なシーツの上に広がる。
「はあ、『どうか、怒りをお鎮め下さい』だってさ。私は怒ってなんていないのに。いくら祈られても、私にはどうすることもできない。私はただ、そこに起きる死を、見届けることしかできない存在だというのに」
レクナスは少し不貞腐れたようにそう言う。
「言わせておけばいいのです。私は、レクナス様が優しい方だと知っていますよ」
鈴の音のような、澄んだ声が響く。彼は上体を起こし、カリンの方をぱっと振り向いた。自分を見つめる、柔らかな黄金色の瞳。
「でもね、いい加減嫌にもなる。ずっとこの繰り返しなんだから」
胸の奥から、長く、深い息が漏れた。
「——さて、しばらくは、忙しくなるよ。今回の地震はかなり大きかったからね。それに聖都だろう? あそこは人間がたくさん暮らしているからなあ。我が冥界は、しばらく死者で溢れることになる」
カリンは頷く。
「そうですね、私にお手伝いできることは、何でもお申し付けください。……私はいつでも、レクナス様の力になりたいと、思っているのです」
レクナスは、黒い瞳をわずかに見開いた。参った、と言うように首を振る。
「……ありがとう、カリン。全く、君は本当にかわいい子だ、いつまでも私のそばにいておくれ」
彼はカリンをぎゅっと抱き寄せた。甘い、柔らかい香りが鼻をかすめる。
「レクナス様、痛いです……」
力強く抱きしめられたカリンは苦しそうに、わずかに身を捩った。
「ごめんごめん、つい、ね」
レクナスは力を緩める。そして改めて、自分の胸に顔を埋める彼女の頭を見下ろし、そっと撫でる。長い睫毛の隙間から覗く、変わらぬ黄金色の輝き。彼は独り言のように静かに呟いた。
「いつまでも、そばに……」
その声は、ふたりの間に、静かに落ちる。




