第17話 祈りの価格
◇
中央教会では、連日、大聖堂の入り口から中庭まで長い列が途切れることなく続いている。
配給の列とはまた違う、どこか浮ついた気配。並んでいるのは、着古した服を着た平民から、泥を避けて歩く小綺麗な身なりの商人まで、様々だった。
彼らが求めるのは、書記官が記し、神官が祝福を与えた『祈書』。イサラが祈書の増発を伝えてから、来る日も来る日も、大聖堂の前には列が途切れることはなかった。
「私の家がこれ以上壊れることがありませんように」
「明日も子供たちに、どうか食べ物を」
縋るような囁き声が重なり合い、あたりを浸していた。
シハルは、受付に立ち、信徒たちに祈書を配る。
「シハル様! この祈書のおかげで、毎日安心して眠ることができるのです。本当に、ありがとうございます」
受け取ったのは商人らしき中年の女性。彼女は涙を浮かべながらシハルの手を握る。その衣服は、あちこちが綻び、泥に汚れていた。
「ええ、神は、いつもあなたと共にありますよ。安心してください」
シハルの声に、彼女は大きく頷き、安堵したように列を離れた。シハルはその背中を見送る。彼女が今日も、安心して眠れますように、と願う。祈書によって、確かに救われる人がいる。
列は途切れることがない。シハルは、祈りの言葉と共に彼らに祈書を渡す。彼らは幾枚かの金貨と引き換えに、美しい装飾の施された紙片を受け取る。
彼らの反応は様々だった。安心したような表情を浮かべる者、なおも不安が拭えない様子の者、ただの紙だと言わんばかりに乱暴に受け取る者、受け取った紙片を恭しく丁寧にしまいこむ者。
そんな様々な反応に、シハルは一様に祈りの言葉を贈る。祈れば神は、どんな者も等しく救ってくださる。迷える彼らのために、祈りを捧げることが、彼らを救うことになると、信じていた。
しかし彼女の耳の奥には、以前聞いた、母を求めて啜り泣く少女の声がこびりついて離れない。その声は、シハルの心をどうしようもなく揺さぶっていた。
「シハル、来ていたのか」
凛とした声に顔を上げると、回廊の奥からイサラが歩み寄ってくるところだった。彼の神服には一点のシミもなく、その佇まいは揺るぎない。
「はい、イサラ様!」
イサラは彼女の煤けた服や、少し乱れた髪を慈しむように見つめる。
「民の苦しみを背負ってきたのだね。その汚れこそ、神に仕える者の勲章だ。神は、いつでも君の善き行いを見てくださっているよ」
イサラは優しく微笑み、シハルの肩に手を置いた。その手の温もりに、シハルは安堵する。
「イサラ様、街では、皆とても苦しんでいます。祈りたくても、その気力さえない。神は、いつになったら怒りを鎮めてくださるのでしょうか」
思わず零れ出た問いに、イサラの瞳がわずかに細められた。彼は行列を見渡し、静かに、しかし澱みなく答える。
「それは我らには預かり知らぬこと。神が大地を揺らすのは、我らの魂を試しておいでだからだ」
「それは……そうかもしれませんが、でも……」
シハルの脳裏に、母親を求めて泣いていたあの少女の顔が浮かぶ。神はどうして、このような試練を与えられるのか。なんの罪もないはずの、幼い少女に。
なおも迷いの表情を浮かべるシハルに、イサラは諭すように語りかける。
「シハル、見てごらん。この行列を。人々は今、かつてないほど真剣に神を求めている。この災厄がなければ、彼らは感謝を忘れ、傲慢のまま朽ち果てていただろう」
聞くものを包み込む、豊かな声。この声で語られる祈りの言葉に、どれほどの人々が救われてきたことだろう。もちろんシハルもその一人だ。
しかしそれでも、彼女は胸の奥に微かに掛かる疑念を、消し去ることはできなかった。ルークの言葉が、思いがけず、彼女に棘のように刺さっていた。
彼らは真剣に神を求めている、そうだろうか? 彼らは本当に、祈っているのか?
「シハル、迷うことはない。我々ができる唯一の救済は、彼らの祈りを正しく形にし、天へ届けることだ。
そろそろ祈書も足りなくなりそうだね、また書記官のところに行ってきてくれるかい?」
イサラの言葉には、一片の迷いもなかった。その完璧な正しさに、シハルは頷く。
「……はい。分かりました」
シハルはもう一度一礼し、回廊を進む。背後でイサラが人々に向け、「神は、常にあなた方と共にあります」と力強く宣言する声が聞こえた。




