第18話 意味のないもの
「ルーク、また祈書の依頼があるの、お願いできるかしら」
シハルは沈んだ声で書記官室の扉を開ける。
「あら? ルーク、いないの?」
しかしいつもの席に彼の姿は見えない。
「ああシハル様、すみません、ちょっと資料を探していました。祈書のご依頼ですね、そちらにお願いします」
書棚の影からひょいと顔を出すと、彼は机の方を指し示す。書物を抱えてシハルの方へ歩み寄る。
シハルは、示された机の上に目を落とす。ふと、彼の机の上に伏せられた紙が目に留まった。白く上質な紙だ。値打ちものだろう。
「あら、これは何?」
シハルは何気なく手を伸ばす。
「……っ! それは」
ルークの静止は間に合わず、シハルは伏せられた紙をぺらりと裏返す。
白い紙の上には、文字が綴られていた。漆黒の線は、柔らかに結び、解け、溶けるように次の文字へと流れる。
その手を溢れた美しいものを、悼み、慈しむ美しい詩。
ルークはその紙を彼女の手からひったくる。彼の肩は小刻みに震えていた。
「そうやって、人のものに勝手に触るのは止めてください! あなたはいつも無神経すぎるんです」
悪かったわ、と両手をあげて謝りながら、シハルは興味深そうな様子でルークの握る紙を見る。
「その詩、あなたが書いたの?」
「……違います」
「でも、あなたの字だわ?」
「気のせいじゃないですか?」
「そんなはずないじゃない、こんな文字、あなたにしか書けないわよ」
「……頼まれただけですよ、いつもと同じです」
頑ななルークの様子に、シハルは、少し不服そうな様子を見せつつも、そう、と静かに引き下がる。
「なら私は、もう何も聞かないわ。でもあなたが話したくなったら、いつでも聞いてあげる。話すだけで、救われることもあるものよ」
優しい声に、ルークの瞼がぴくりと揺れる。
「だから、僕は頼まれただけだと——」
顔を上げると、シハルと目が合った。彼女は真っ直ぐにルークを見ていた。
彼は思う。
——これだから、神官なんてのは嫌なんだ。
誰にも見向きもされない、内側から鍵をかけて自分でも開け方も分からなくなった扉を、当たり前のように叩いてくる。自分は招かれた者だとでも言うように。
自分は他人を救えると、無邪気に信じている。そのなんて傲慢なことか。
「……長いだけで、つまらない話ですよ。ありふれた話だ」
「そんなことないわ。あなたにとっては大事な話なんでしょう? それをつまらないなんて言わないで。あなたがとても優しい人だって、私は知ってる」
ルークは俯く。なんて傲慢。それでも、嘘のない彼女を見ていると、自ら閉じた扉に手をかけてもいいような気がしてくるのだ。
そんな彼女は、本当に優れた聖職者だ。でも、手をかけてもいい、と思うのはきっと、彼女が優れた神官だからではない。それはシハルが、シハルだから。
一人で考え続けて、どこにも行けなくなった彼は、扉を開ける機会を、どこか探してもいた。真っ直ぐな傲慢が、そんな臆病な彼の背を押した。
「……妹がいました」
ルークは静かに呟く。シハルは、絶対に他人を軽んじたりしない。ルークはそれを、心の底では分かっていた。
「妹さん?」
彼は小さく顎を引く。
「突然、本当に突然でした。もう五年前になります。つい少し前まで元気だったのに、あの子は突然、逝ってしまった。僕はずっとそばにいたのに——さよならも、言えなかった」
彼はすとんと、椅子に腰を下ろす。シハルは俯いた彼を、無言で見守る。
「両親は教会にいました。熱心な信徒だったんです。僕たちは二人で、いつものように留守番をしていました。僕は妹を置いて、本を読んでいた。
——だって思いますか? 数秒前まで元気だった妹が、突然倒れるなんて。もう二度と会えないなんて。
名前を呼んでも、肩を揺らしても、何の反応もありませんでした。僕には、どうすれば良いのかも分からない」
彼は目を閉じて首を振る。瞼の裏には、妹の姿が映っていた。忘れたくとも、忘れられない顔。絶対に、忘れたくないその顔。
彼は細い声で続ける。
「帰ってきた両親の顔は、思い出したくもありません。結局、お医者様に見せても、原因は分かりませんでした。……原因なんて、どうだって良いことですが。だってそれが分かっても、妹は戻らない。
うちは貧しい家です。でも、父も母も、祈りだけは欠かしたことはなかった。僕らが幸せに生きられますようにって。それなのに、彼らのそのたったひとつの祈りは、叶わなかった」
「そう。……そうね」
シハルは呟く。彼女のその声は優しかった。ルークは、その音に勇気づけられるように言葉を紡ぐ。
「……それからのことは、あまり覚えていません。でも、それ以前とそう変わりませんでした。両親は変わらず優しかったし、毎日働いて、毎週欠かさず教会に行きました。僕も変わらず、起きて食べて眠って、毎日を過ごしました。ただ、妹だけがいなかった」
彼の声は掠れていた。他人に妹の話をするのは初めてではない。でも、こんなに、震えそうになるのは、きっとこれが、今までに話したどの話よりも、本当のことだから。本物の、自分の感情。聞く価値のない話だと、言われるのが怖くて、自分の中に大切に守ってきたもの。
「——あなたは、怒っているのね」
シハルは静かに言う。
「きっと、私には、あなたの気持ちは分からないわ。だって同じ経験をしていないもの。でもね、心の中に言葉があるなら、話せばいい。怒りたいなら、怒ればいい。なんだって、私が聞くわ。聞くことしかできなくても、私が聞くから」
静かな部屋に、シハルの声だけが響く。ルークに寄り添う彼女の瞳は美しかった。彼に勇気を与える光。
彼は、微かに頷いた。
「……妹の弔いに行った教会で、司祭様は言いました。天の国で、君の妹はきっと幸せに過ごしている、と。すべてのことには、意味があるんだよ、だから君は生きなさい、って」
彼は俯いて首を振る。息を吸う。
「でも、意味ってなんです? 妹が死んだことに、意味なんてあるはずがない、そうでしょう? だってあの子は何もしていないんだ。他の誰かの意味のために、あの子の死を与えたりなんて僕は絶対にしない」
シハルは、何も言わずに頷く。彼は、息を整える。
「文字を書くことだけは得意だった僕は、だから書記官になりました。お給金が良いですからね。両親は、僕が教会に仕える職に就いたことをとても喜びました。僕はそれで十分だった。書いているものの意味なんて、だからどうでも良いんです」
そう呟くルークに、シハルは首を振る。
「どうでもよくなんてないわ。だってあなたは、妹さんのために、それを書いたんでしょう?」
そう言ってルークが握る紙片を示す。
「……自分のためですよ。自己満足です」
彼は握りつぶした紙片を見てそう言った。
「それでもいいじゃない。自己満足で、何が悪いの? あなたは信心なんてないと言うけれど、それは確かにあなたの祈りだわ。本物の祈り」
「だったら、なんだって言うんです? 祈ったってどうしたって、妹は死んで、僕は生きているんだ。それは変わらない」
彼はぐっと拳を握る。
「ルーク、あなたの言うとおり、きっと何も変わらない。私にも何もできないわ。でもね、私はあなたの言葉を確かに聞いた。——そういう人がここにいるって、それだけは忘れないで」
シハルはその拳に手を添える。ルークはしばらく温かいその手を見つめていた。
「……ありがとう」
手を離したルークは握った紙を広げて、丁寧に伸ばす。自分の書いた文字をしばらく眺めると、折りたたんで引き出しへとしまう。
とん、と、引き出しの閉じる音がした。
「さて、仕事ですね、依頼書をください」
彼はいつものように、手入れの行き届いた筆を執る。端正に磨かれたその筆は、彼の手に馴染むように収まった。




