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第16話 泥に沈む言葉



「神よ、どうか我々をお救いください」


 シハルは祭壇に向かって祈る。彼女にとって、祈りは呼吸と同じくらい身近にあった。神の声に耳を傾け、心を尽くして祈りを捧げる。それが、神官の役目。


 幼い頃は父と共に、父が布教のため聖都を出てからは主に一人で、毎日繰り返してきたその習慣は、彼女の体にすっかり馴染んでいる。


 意識せずとも自然に成せるほど体に染みついたその動きを、それでもひとつひとつの動作に意識を向けながら、丁寧に行う。ひとつの動き、ひとつの言葉、その全てに込められた意味があった。

 祈りを繰り返すたび、その意味が彼女の体に、心に刻まれてゆく。


 日課の祈りを終えると、シハルは丁寧に祭壇を清め、最後に深く一礼して、その場を後にする。


「シハル様、今日もお勤めご苦労様です」


 部屋を出たシハルに、一人の青年が声を掛ける。


「あら、エメルド、待たせたかしら?」


 彼は教会救護局の職員の一人。あの地震の日以来、街は荒れていた。救護局では、市民への配給活動に力を入れている。神官であるシハルも、その活動と共に、街の人々の元をめぐり、話に耳を傾けていた。


「いえ、今来たところです。シハル様をお迎えにと、思いまして」


「ありがとう。行きましょうか」


 瓦礫の隙間を縫うように、シハルは街を歩く。瓦礫が取り払われた道でも、石畳には、まだ細かな石が残っている。靴底が擦れるたび、しゃりしゃりと乾いた音がした。


 倒れた壁、割れた窓、歪んだ扉。どこも見慣れたはずの街並みだった。しかし、少しずつ歪んだ風景は、どこか知らぬ場所に来てしまったような違和感を与える。


「暮らしは、どうですか? 困ったときは、いつでも教会を頼ってくださいね」


 シハルは街の人々に声をかけながら歩く。その度に、疲れ果てた視線が彼女に向けられる。


 広場の白いテントの周りには、暖かい湯気がもやもやと漂っていた。シハルはエメルドと共に、長い列に並ぶ人々へ食事を配り、そしてその傍らに、書記官の書いた神典の写しを添える。


「神は、我々の痛みをすべてご存じです。どうか、この神の御言葉を支えに」


 シハルは微笑みを絶やさない。しかし、受け取る人々の表情は重く、その手は泥に汚れていた。ある者は無言で紙を懐に押し込み、ある者は文字すら見ずに、差し出されたパンだけを奪うように去っていく。


 ひとつ手渡すたびに、シハルの心はずしりと重くなってゆく。ああ、なんて悲しい。神の御言葉に耳を傾ける余裕すらないなんて。彼らのためにも、自分が祈るのだ。

 彼女は、心の中で、祈りの言葉を繰り返す。


「シハル様、あちらの子供たちをお願いできますか」


 エメルドに促され、シハルは配給所の隅で固まっている子供たちの元へ歩み寄った。子供同士固まって、時にふざけては、不謹慎だと、大人たちに注意される。


 親を待っているのか。あるいは、もう待つ親などいないのか。所在なげに立つ彼らの瞳の奥には、災厄の恐怖がこびりついていた。


 シハルは彼らと同じ高さに腰を下ろす。


「みんな、大丈夫よ。神様はね、この大地の下で眠る人たちを、お花がいっぱいの天界へ招待してくださるの。そこには怖いことなんて何もない、とっても温かい場所なのよ」


 一人の幼い少女が、不安そうにシハルの袖を引いた。


「ねえ、シハル様。ママもそこに行ったの? 神様が、ママを連れて行っちゃったの?」


 まっすぐな問いに、シハルの喉が詰まる。


「……ええ、そうよ。神様が、お母様を一番安全な場所で守ってくださっているわ。だから、泣かなくていいのよ」


 そう答えるシハルの声は、自分でも気づかないほど微かに震えていた。


「なんで? なんで私を置いて、そんなところに行っちゃったの? 私もそこに、一緒に行きたい……」


 彼女は嫌々と、首を振る。掴んでいた紙が手のひらから滑り落ちる。


「あ……」


 その紙片はひらひらと舞い、泥の浮いた水たまりに落ちる。インクが滲み、美しい文字が汚れていくのを、シハルはただ見つめることしかできなかった。美しい、彼の文字。

 シハルはゆっくりと、泥まみれの紙片を拾い上げた。


 ——僕がこの美しい文字でどれほど嘘を並べているかも、全部お見通しですよ。


 不意にルークの冷ややかな声が脳裏をよぎる。シハルはそれを振り払うように、拾い上げた神典の一節を強く握りしめた。


「大丈夫、お母様は、離れていても、あなたのことをずっと見守っているわ。あなたの幸せを願っている。

だからあなたは、ここで私たちと一緒に生きていかないと。私は、いつでもあなたたちの味方よ」


 シハルは優しく声をかける。少女の啜り泣く声は、いつまでも止まらなかった。

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