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第11話 『祈り』



 アレリナは、天界に咲く花梨の花に手を伸ばしていた。

 いつものようにのんびりと花々を眺める彼女を、精霊のフェスティがじれったそうに呼ぶ。


「アレリナ様、また『祈り』がたくさん届いていますよ!」


 静かな闇の中に沈む冥界に対して、天界は明るくにぎやかな場所だ。カリンただひとりの精霊を宿す冥界と違い、天界には数多くの精霊が宿っている。


 アレリナが愛し、時に気まぐれに祝福を与えた生命(いのち)たち。

 アレリナは彼らに囲まれ、日々多くの新たな生を地上にもたらしていた。


 彼女は、花が好きだった。だから、天界はいつも色とりどりの花に溢れている。彼女が愛でた地上の花々から生まれた精霊も多い。


 植物に花を咲かせた過去の自分を、彼女はいつも好ましく思っていた。愛は花となり、やがて実をつける。とても、いい香りがする。

 アレリナは、たくさんの花の香りが混ざり合ったその匂いを吸い込むように、大きく深呼吸をした。


「ああ、そうだね。少し待ってて、フェスティ、今行くよ!」


 地上から届く祈りは、アレリナの元に絶え間なく降り注いだ。彼女はそれを受け取り、そして叶える。それが彼女の日課だった。


 祈りとは、ただの願いではない。そこには確かに、人々の切実な希望がこもっている。アレリナはぐっとこめかみを抑えた。


「アレリナ様、どうかなさいましたか?」


 フェスティが彼女の顔を覗き込む。


「ごめんごめん、ちょっとぼんやりしていてね。——あ、そうだ、この服、似合ってるかな。新しく作ったんだ」


 そう言ってアレリナは裾を(つま)む。


「……アレリナ様は、いつも美しくていらっしゃいます」


「嬉しいことを言ってくれるね、気分がいいから、ついでにお前の願いも一緒に叶えてやろう。さあ、行こうか」


 アレリナはフェスティの頬をひとつ突き、笑顔で『祈りの丘』へと向かう。





  かつて水晶のように透き通っていた天界の空気は、今はしかし、絶え間なく降り注ぐ祈りの声に満たされ、ざらりとわずかに澱んでいる。


「お救いください」「なぜ私だけが」「あいつを呪ってください」「豊作を」「平穏を」「死にたくない」


 降り注ぐ祈りは、アレリナを突き刺す。


 いつからだろう、人々の祈りは、彼女に痛みとして蓄積されるようになった。


 ひとつひとつは小さなもの。しかし積み重なると、水滴が石を穿つように、確かにアレリナを蝕んでいた。


 小さな祈りが、身体の中に入り込んでくる。近頃は、災厄に荒れる地上にあって、祈りも重みを増していた。


(今日も、お前たちは満たされないのだね)


 始の神、アレリナは、地上に『奇跡』をもたらす。人間の誕生以来、彼女は様々な恵みを地上にもたらしてきた。

 生命の循環を整え、食物を増やした。農業の、工業の、起こりを支えてきた。祈りに耳を澄ませ、与えるべき恵みを選び取り続けた。


 地上の人々は、そのたびに、神に感謝する。そしてすぐに忘れる。それが彼女の日常だった。


 今、聖都を襲った災厄によって、地上は対立を増し、争いが絶えない。アレリナのもとへ届く人々の祈りはその分、切実だった。


 彼らは、限られた資源を求めて争った。不安の中で、信仰を巡って争った。人々は理由を見つけては争い、地上にその血を流す。

 そのたびに敗者は、弱者は傷つき、その救いを神に求めた。


 アレリナは、戦いで荒れた土地に恵みの雨を降らせ、終わらぬ(いさか)いの境界を割いた。戦に飲まれ、為す(すべ)のない弱い者たちの命を掬いあげた。


 それでも、何をしようとも、彼らは争い続ける。神の恵みを巡って、新たな火種が起こる。そして自らの起こした争いで傷ついた人々は、何度でも、神の救いを求めた。


  彼女の白い指先は、地上から昇ってくる黄金色の糸に絡め取られ、身動きもままならない。一本一本は細く柔らかな祈りも、数百万、数千万と重なれば、神の肉体をも引き裂く鋼の鎖と化した。


(大丈夫、少し痛いくらい——なんてことはない)


 彼女は始まりの神。地上にあるすべてのものに祝福を与える者。だからこそ本当は、届く祈りのすべてを叶えたい。


 だが、一人の幸福を叶えれば、一人の不幸を許すことになる。一人の生存を願えば、もう一人の死を容認することになる。


 彼女はそんな矛盾を、日々選び取っていた。それは理不尽かもしれない。傲慢かもしれない。それでも愛する地上の生命(いのち)に少しでも多くの幸福を、と願わずにはいられなかった。

 そしてそんな矛盾の積み重ねが、彼女の心を摩耗させる。


 ——皆が平等に同じものを持って生まれる世界。そんな世界は、あり得るだろうか。


 アレリナは考える。そこには何もない。生き物にも、大地にも、一つの濃淡もない世界。

 そこには流れもなく、その世界には対話もない。文化も社会も、環境も、存在しない世界。——そんなものは、無だ。


 それでも、人々は神に平等をと望むのだ。存在しない理想を、いつまでも追い求め続ける。


 愛おしい、と彼女は思う。


 存在しないものを、追い求めることの何が悪い? 彼らを動かしているのは、今よりも良い答えが、どこかに存在するかもしれないという期待。そんな見えないものを追い求めて、生命は(うごめ)く。

 それこそが彼女の求めてやまない、変化であり刺激。無と退屈の対極にあるものではないか。


 ——私が彼らの神であるならば、彼らの望みに、応え続けなければならぬ。


 時代が進み、人間の数が増えれば増えるほど、祈りの量も増えてゆく。チクリチクリと、休む間も無く彼女に届く。


「あの子を救ってください」「あいつを滅ぼしてくれ」「あの国を、出し抜いてやりたい」「この世界に平和を」「私こそを王に!」


 アレリナはひとり呟く。


「……私が勝手に生んだんだ。できるだけのことはしてやりたいと、思ってはいるよ」


 どこまでも、終わりのない仕事。でもそれは、創造主の使命だった。


 ふと、先ほど嗅いだ花梨の花の香りとともに、彼女の脳裏に、かつての記憶が蘇る。もう、過去になってしまった記憶。


 それは、今より少し世界が新しく、レクナスと共に笑っていた頃。この天界が、純粋な光に満ち溢れていた頃のこと——

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