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第10話 伸ばした手

「レクナス様?」


 物思いに(ふけ)るレクナスの顔を、カリンが覗き込んだ。あの日と同じ丸い瞳が彼を見上げている。レクナスはぱちぱちと瞬きをし、息を吐いた。


「……ああ、ごめんよ、そろそろ帰ろうか」


 レクナスは、眩しい天界の光を背に受けながら、ゆっくりと歩き出す。

 冥界へ続く(みち)の入り口に着くと、彼は、カリンに手を差し伸べた。


「今日は、ついてきてくれてありがとう。……楽しかったよ。君も、いい息抜きになっていたらいいけど」


 レクナスは、そのままカリンを抱えて冥界へと降りる。


「とても、楽しかったです。——花梨の花、きれいでしたね」


 レクナスを見上げながら、カリンは嬉しそうに言う。


「私は、花梨の花から生まれたんだと、前にそうおっしゃいましたよね? アレリナ様が私に祝福を与えてくださった、と」


「……そう、そうだね」


 レクナスは僅かに言葉に詰まる。喉元まで上りかけた言葉を、飲み込む。彼女に本当のことは、伝えられない。

 カリンはそんな彼をまっすぐに見つめている。嬉しそうな声で続ける。


「だから、見られて嬉しかったです。なんだか、懐かしい気持ちになります。

不思議ですね、記憶なんてないのに、初夏の風の中で、ずっと昔にも、あなたに撫でられていたような気がするんです」


 レクナスの指先に力が入る。腕の中のカリンの横顔を盗み見た。彼女の純粋な笑顔が眩しい。

 しかし彼は浮かぶ感傷を全て奥へと押し込め、穏やかな声で応える。


「君が喜んでくれて良かった、きっとまた見に来よう。アレリナに捕まるのは、面倒だけど」


 よし、着いた、とレクナスはカリンを地面に下ろす。冥界の(くら)い風が、ふたりをふわりと撫でる。

 ありがとうございます、と礼を言って、カリンはレクナスの後ろを歩いた。


「アレリナ様は、相変わらず面白い方でしたね」


 ふふ、とカリンの口から笑みが(こぼ)れる。


「あいつはいつも勝手ばかりするから困ったものだよ」


 レクナスは肩をすくめた。

 そんなレクナスの背中に、カリンは躊躇(ためら)いがちに質問する。ずっと気になっていた。


「ところで、アレリナ様が言った、あの日、というのは……」


  レクナスの背中が、僅かにこわばる。彼は立ち止まり、振り返った。


「カリン。私は、君を、その……」 


 言葉が途切れる。目が泳ぐ。その声の奥には、確かに怖れが(にじ)んでいた。


 優しく臆病な主人。カリンは、それ以上聞かない方が良いのだと、直感した。

 つい、好奇心に駆られてしまった。彼が隠したがっているのは分かっていたのに、問いを口に出してしまったことを後悔した。

 カリンは首を振り、にっこりと笑う。


「……いいえ、なんでもありません。ちょっと、聞いてみただけです。気になさらないでください」


 こんなことで、こんな些細な好奇心などで、レクナスとの関係に、ひびを入れたくはなかった。

 カリンはこの主人も、今の環境も、とても気に入っている。この不器用な主人のことが好きなのだ。彼女は、ただ彼の側にいたいだけ、それで十分だった。


「ごめんよカリン……その、……ごめん」


 躊躇(ためら)いがちに伸ばしかけた手は、カリンに触れる前に止まり、レクナスは力無く俯いた。

 おやすみ、と声をかけ、レクナスは自室の扉をくぐる。


 パタン、と扉が閉じると、レクナスは、ひとり、ベッドに倒れ込み天井を見つめる。


 カリンに、こんなにも美しいカリンに、醜いものなど、見せたくないのだ。金輪際、悪意になど触れずに、美しいものだけ見て、生きて欲しい。あの綺麗な瞳に、美しいものだけを映して。


 いいや、そんなのは綺麗事だ。ただ、自分のしたことを知られたら、嫌われてしまうのではないかと、それが怖かった。どうしようもなく、怖ろしかった。


 目を瞑ると、木漏れ日の光が瞼の裏に映る。絶対に、損ないたくはない。初めて会った日、自分の手を取った彼女の手の温かさが、彼は今でも忘れられなかった。





 レクナスを見送ったカリンはひとり、冥界の廊下を歩く。ひたり、ひたりと足音が小さく響いた。誰もいないこの回廊は、いつも静かで、変わらない。彼のように、静かで。


 ——レクナス様の手。伸ばしかけて、止まったあの手。


 届きそうで、触れられなかったその距離が、どうしようもなく胸の奥に残っている。


 ——私に知られては、いけないこと?


 彼は、彼女が知ってしまったら、何かが壊れると思っているのだろう。そんな風に、思われているのだろう。そんなこと、あるはずないのに。


 あるはずがない、と彼女が言っても、彼は心の底から信じてはくれないのだ。繊細なガラス細工にでも触れるかのように、いつも彼はどこか怯えている。

 そのような彼の振る舞いは、カリンになんとなく、詰めきれない距離感を感じさせていた。


 胸の奥に、ひやりと冷たいものが落ちる。過ぎた望みだと分かっている。私は、この冥界に宿る、ただの精霊。冥王に仕える、小さなひとつの魂。少しくらい、信頼されていないからって、それがなんだ。

 彼には、十分過ぎるほどに愛されていた。


 ふっと足を止める。振り返っても、もう誰もいない。気配も、足音も、光も、何も。


 カリンはそっと瞼を閉じた。


 そばにいるだけで、十分。本当に、心からそう思っていた。

 でも、本当にそれだけで、満ち足りていたのなら——私の心は、なぜ今こんなふうに震えているのだろう? 私は、いったい何が欲しいのだろう?


「おやすみなさい、レクナス様」


 小さく、声に出す。届かなくたっていい。たったひとりのひとへ、祈るように、そっと呟く。


 冥界の、無限の夜は今日もゆっくりと更けてゆく。


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