冷酷なる父、そして脱出
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シュヴァルツェン伯爵邸の書斎は、春の陽光すら届かぬかのように薄暗かった。重厚な黒檀の机、壁一面を覆う革張りの書物、そして窓辺に掛けられた深紅のカーテン——すべてが冷たく、重苦しい空気を纏っている。
リーゼロッテは書斎の中央に立ち、机の向こうに座る父の姿を見つめていた。ハインリヒ・フォン・シュヴァルツェン。銀灰色の髪に冷たい灰色の瞳、表情筋が凍りついたかのような無表情。それは幼い頃から変わらない、娘を『物』としてしか見ない男の顔だった。
「婚約破棄か」
ハインリヒの声が静かに響く。しかしその静けさには、氷点下の怒りが滲んでいた。
「……はい、父上」
リーゼロッテは従順に頭を垂れた。淡い銀灰色の髪がさらりと肩から流れ落ちる。
「無能な娘だ」
吐き捨てるような言葉。
「申し訳ございません、父上」
声には一片の感情も込めない。それが五年間で磨き上げた技術だった。しかし俯いた瞳の奥では、冷たい炎が静かに燃えていた。
——父上の弱み、いくつあったかしら。
リーゼロッテは内心で数え上げる。王家への上納金の一部横領。領地の税収の改竄。そして何より——母を政争の生贄にした罪。
「五年だ。五年も王太子殿下の婚約者でありながら、心を掴むことすらできなかったとは」
ハインリヒは羽根ペンを机に投げ出した。乾いた音が書斎に響く。
「あの聖女とやらに奪われるとは。お前には女としての魅力すらないのか」
「仰る通りでございます」
リーゼロッテは顔を上げなかった。上げれば、この男への軽蔑が目に浮かんでしまうから。
——母の死後、一度も慰めの言葉をかけなかった。ただ『王太子を籠絡しろ』と命じるだけだった。
そう、この男は十五歳の少女に向かって、母を亡くした悲しみに寄り添うことなく、ただ『道具』として機能することだけを求めた。
「何か申し開きはあるか」
「ございません」
淡々と返す。弁解など不要だった。弁解すべき相手でもなかった。
ハインリヒは深いため息をつき、椅子の背にもたれた。灰色の瞳が娘を値踏みするように眺める。
「まあよい。婚約破棄は確かに失態だが、お前にはまだ利用価値がある」
利用価値。この男の口からは、それ以外の言葉は出てこない。リーゼロッテは内心で薄く嗤った。
「ヴェルナー侯爵家の次男が、お前に興味を示している。年は四十を過ぎているが、正妻を亡くしたばかりでな。子を産める若い妻を求めている」
——子を産む道具、というわけね。
「父上のご命令とあれば従いますが」
リーゼロッテは顔を上げ、穏やかな微笑みを浮かべた。それは社交界で『完璧な令嬢』と称された、蜜のように甘い笑顔。
「申し訳ございません、父上。昨夜はヴァイスブルク公爵邸に身を寄せましたが、心労が重なり体調を崩してしまいました。縁談の件は、しばらく療養してからご検討くださいませ」
ハインリヒの眉がぴくりと動いた。
「……療養だと? そのような言い訳で時間を稼ごうというのか」
「いいえ、父上。ただ、このような状態では侯爵家にご迷惑をおかけしてしまいますわ」
嘘ではない。ただし『療養』の実態が何であるかは、この男に知らせる必要はなかった。
ハインリヒの顔に苛立ちが浮かぶ。娘の言葉に道理がある以上、強く出ることもできない。しかしその不満を口にしようとした、その時——
重苦しい沈黙が書斎を支配した。ハインリヒの灰色の瞳に怒りが渦巻く。しかし次の言葉を発する前に、控えめな扉のノック音が響いた。
「何だ」
苛立ちを隠さずにハインリヒが応じる。
「失礼いたします。お客様がお見えです」
使用人の声は緊張で震えていた。
「ヴァイスブルク公爵家より、レオンハルト様がお越しくださいました」
その言葉に、書斎の空気が一変した。ハインリヒの顔から怒りが消え、代わりに別の表情が浮かぶ。——媚び。権力への露骨な媚びだった。
「お通ししろ。すぐにだ」
慌てて立ち上がり、身なりを整えるハインリヒ。その姿を、リーゼロッテは冷ややかに見つめていた。
——なんて卑しい。つい先程まで娘を罵倒していた口で、今度は媚びを売るのね。
書斎の扉が開き、長身の影が姿を現した。
漆黒の髪に深い紺碧の瞳。彫刻のように整った美貌は、しかしどこか近寄りがたい冷たさを湛えている。黒を基調とした洗練された装い。レオンハルト・フォン・ヴァイスブルク。社交界で『氷の公爵子息』と呼ばれる男だった。
「突然の訪問、ご容赦いただきたい」
レオンハルトの声は低く、感情を削ぎ落としたように平坦だった。しかしその紺碧の瞳が一瞬だけリーゼロッテに向けられた時——そこには確かな温もりが宿っていた。
「いえいえ、滅相もございません!」
ハインリヒは満面の笑みを浮かべ、大げさな身振りで客人を迎え入れる。先程までの冷酷な父親の姿は影も形もない。
「公爵家のご嫡男がわざわざお越しくださるとは、我が家の光栄にございます!」
リーゼロッテは視線を伏せた。父の豹変ぶりに嫌悪を感じながらも、顔には穏やかな微笑みを保つ。
「リーゼロッテ嬢の見舞いに参った」
レオンハルトは単刀直入に告げた。社交辞令を重ねる気はないらしい。
「婚約破棄の件で心労があると聞いている。療養が必要であれば、我が家で面倒を見ても構わない」
その言葉に、ハインリヒの目が輝いた。公爵家との繋がり——それは伯爵家にとって何物にも代えがたい価値がある。
「それは、それは……!」
ハインリヒは揉み手をしながら、信じられないといった様子で声を上げた。
「なんとお優しいお心遣い!我が娘にはもったいないほどのご厚意でございます!」
リーゼロッテは静かに一礼した。
「レオンハルト様、お気遣いいただき光栄にございます」
「礼には及ばない」
レオンハルトの視線がわずかに和らぐ。それはこの男が見せる、数少ない感情の揺らぎだった。
「伯爵、令嬢を我が家にお預かりしてもよろしいか」
「もちろんでございます!」
即座に、何の躊躇いもなくハインリヒは承諾した。娘の意思を確認することもなく。療養という名目で手放すことに、何の感慨も抱いていない様子で。
——やはり、この男は変わらない。
リーゼロッテは薄紫水晶の瞳を伏せた。しかしその瞳の奥には、嗤いが浮かんでいた。
「では、そのように」
レオンハルトが頷く。
「リーゼロッテ嬢、準備が整い次第出発する。支度を」
「はい、レオンハルト様」
優雅に一礼し、リーゼロッテは書斎を後にした。背後では、ハインリヒがレオンハルトに何やら取り入ろうと必死に話しかけている声が聞こえた。
——愚かな父上。娘を道具としてしか見なかった報い、いずれ必ずお返しいたしますわ。
伯爵邸の長い廊下を、リーゼロッテとレオンハルトは並んで歩いていた。使用人たちは遠巻きに二人を見送るだけで、声をかける者はいない。
「助け舟に感謝いたしますわ、レオンハルト様」
小声でリーゼロッテが告げる。廊下には誰もいないが、壁には耳がある。
「感謝は不要だ」
レオンハルトは前を向いたまま、低い声で応じた。
「俺は自分の意志で動いている。誰に頼まれたわけでもない」
その言葉に、リーゼロッテは一瞬だけ横顔を見上げた。彫刻のように整った横顔は無表情だが、どこか——柔らかい何かが滲んでいるようにも見えた。
「……それでも、感謝を述べずにはいられませんの」
玄関ホールに差し掛かると、既にエルザが荷物を纏めて待機していた。
「お嬢様、お荷物の準備は整っております」
栗色の髪をきっちりと結い上げた侍女は、平然とした様子で一礼した。まるで主人が伯爵邸を出ることを、最初から予期していたかのように。
「ありがとう、エルザ」
「レオンハルト様の馬車が表に」
伯爵邸の重厚な扉が開かれ、春の風がリーゼロッテの銀灰色の髪を揺らした。
外には漆黒の馬車が待機していた。車体にはヴァイスブルク公爵家の紋章が銀で刻まれている。
リーゼロッテは振り返り、生まれ育った屋敷を一瞥した。冷たく、暗く、一度も『家』と感じたことのない場所。
——さようなら、父上。次にお会いする時は、貴方を裁く側として参りますわ。
心の中でそっと別れを告げ、リーゼロッテは馬車へと向かった。
馬車が石畳の道を滑るように進み始める。車窓の向こうでは、シュヴァルツェン伯爵邸が次第に小さくなっていった。
リーゼロッテはレオンハルトと向かい合う形で座り、静かに窓の外を見つめていた。エルザは御者台の傍で護衛と共に同行している。
「……お前の父は、お前を売る気だったな」
レオンハルトが口を開いた。その声には、かすかな怒りが滲んでいた。
「ええ。ですが予想の範囲内でしたわ」
リーゼロッテは薄く微笑んだ。その笑みには、諦めとも達観ともつかない色が宿っている。
「あの男にとって、私は最初から道具に過ぎませんもの」
「だからといって——」
「レオンハルト様」
穏やかに、しかしきっぱりとリーゼロッテは遮った。
「私は大丈夫ですわ。むしろ、これで動きやすくなりました」
そう言いながら、リーゼロッテは懐から一通の封筒を取り出した。封蝋には見覚えのない紋章が押されている。
「これは?」
「エルザから受け取った密書ですわ。マリアベル様に関する調査の、第一報です」
封を切り、中の便箋に目を通す。紺碧の瞳が文字を追うにつれ、リーゼロッテの唇が微かに歪んだ。
「……聖女様の過去には、興味深い点が多々あるようですわね」
「何が分かった」
「まだ断片ですわ。ですが——」
リーゼロッテは密書を丁寧に折りたたみ、再び懐にしまった。そして窓の外に視線を向けながら、独り言のように呟いた。
「次は聖女様の正体を暴く番ですわね」
その声は、春の陽光の中にあってなお、氷のように冷たかった。
レオンハルトは黙ってリーゼロッテを見つめていた。やがて、低く落ち着いた声で告げる。
「……俺に手伝えることがあれば言え」
リーゼロッテは視線を戻し、穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます、レオンハルト様。その時が来ましたら、遠慮なく」
馬車は王都の石畳を走り続ける。ヴァイスブルク公爵邸へ向かいながら、リーゼロッテは静かに瞳を閉じた。
——マリアベル様。貴女が何者なのか、すべて暴いて差し上げますわ。
復讐の第一幕は終わった。しかし本当の戦いは、これからだった。
蜜のような笑顔の下で、毒は静かに調合され続けている。
リーゼロッテは再び密書を取り出し、最後の一文を読み返した。
『マリアベルが男爵領の孤児院を慰問していた頃、原因不明の病で衰弱した子供が七名——』
「——蜜のような笑顔で毒を盛る。それが私の流儀ですもの」
車窓の外では、春の陽光が眩しく降り注いでいた。しかしリーゼロッテの瞳に宿る光は、その陽光よりもなお冷たく、鋭かった。




