聖女断罪
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早朝の柔らかな光がヴァイスブルク公爵邸の離れに差し込む中、リーゼロッテは机上に広げられた書類を睨むように見つめていた。昨夜父の屋敷から戻ってから、一睡もしていない。しかしその薄紫水晶の瞳には疲労の色はなく、むしろ冷え冷えとした決意の炎が燃えていた。
「エルザ」
静かに呼びかけると、控えていた侍女が音もなく傍らに進み出る。
「はい、お嬢様」
「孤児院の件——衰弱死した七名以外にも、被害を受けながら生き延びた子供たちがいたはず。彼らの現在の居場所は?」
エルザは手帳を開き、淀みなく報告を始めた。
「生存者のうち、現在居場所が確認できているのは四名でございます。二名は王都近郊の村で農夫として、一名は港町で船乗りに。残る一名は……」
「残る一名は?」
「聖ミリア修道院に身を寄せております。かつての衰弱の後遺症で、今も床に伏せることが多いとか」
リーゼロッテは頷いた。その後遺症こそが、マリアベルの『奇跡』の代償を証明する生きた証拠となる。
「……その後遺症こそが、マリアベルの『奇跡』の代償を証明する生きた証拠となりますわ」
彼女の指先が、机上の地図——孤児院出身者たちの居場所を記した——を軽くなぞった。
「全員の証言を取りなさい。そして信頼できる治癒師を手配して。彼らの体に残る『生命力搾取』の痕跡を、正式な診断書として記録に残すのよ」
「承知いたしました。……お嬢様、これは時間との戦いですわね。公聴会までに全ての証拠を揃えなければ」
「ええ。マリアベルは追い詰められた獣。暴発する前に、完璧な檻を用意しなければなりませんわ」
エルザは主人の横顔を見つめ、わずかに口元を緩めた。
「お嬢様、また『お優しい笑顔』で誰かを破滅させるのですね」
リーゼロッテは窓の外に視線を向けた。朝焼けが空を茜色に染めている。
「あら、破滅させるのは私ではありませんわ。彼女自身の罪が、彼女を滅ぼすのです……母上を殺した者たちへの報いは、もうすぐ完成しますわ」
その声は蜜のように甘く、しかしその奥には致死量の毒が潜んでいた。
昼過ぎ、応接間の扉が開き、漆黒の髪を持つ長身の青年が姿を現した。レオンハルト・フォン・ヴァイスブルクは、いつもの無表情を保ちながらも、リーゼロッテを見る深い紺碧の瞳だけは柔らかかった。
「待たせたか」
「いいえ。……王宮での動きは?」
リーゼロッテが茶器を差し出すと、レオンハルトは向かいの椅子に腰を下ろした。
「調査委員会の設立が正式に承認された。委員長には老魔道師グスタフが就任する」
リーゼロッテの唇がわずかに緩んだ。
「グスタフ卿……あの方なら、いかなる政治的圧力にも屈しないでしょうね」
「先日のパーティーでの分析結果を、今度は公式な場で報告させることになる。聖女の『奇跡』に疑惑がある以上、国家として調査する義務がある——という建前だ」
「建前……ですわね。実際には、彼女を庇い立てできる者がもういないということ」
レオンハルトは紅茶に口をつけ、続けた。
「俺の権限で、被害者たちの証言を公聴会で正式に受理できるよう手配した。お前が集めた証拠は、全て法的な効力を持つことになる」
リーゼロッテは静かに頷いた。彼の政治力がなければ、ここまで迅速に事は進まなかっただろう。
「感謝しますわ、レオンハルト様」
「……お前のためだ」
短い言葉だったが、その声には偽りのない想いが込められていた。リーゼロッテは一瞬だけ目を伏せ、それから真っ直ぐに彼を見据えた。
「この戦いが終わったら——」
言いかけて、彼女は言葉を飲み込んだ。まだ全ては終わっていない。父への復讐が残っている。
「……いえ、何でもありませんわ」
レオンハルトは追及しなかった。ただ静かに、しかし確かな声で言った。
「俺は待てる。お前が全てを終えるまで」
窓から差し込む午後の陽光が、二人の間の沈黙を優しく照らしていた。
「……ありがとうございます」
リーゼロッテの声は、かすかに震えていた。
同じ頃、王宮の一角。マリアベルに与えられた私室は、もはや監禁部屋も同然だった。
「調査委員会ですって……?」
その声は震えていた。清楚な白いドレスは皺だらけで、蜂蜜色の巻き毛は乱れている。翡翠色の瞳からは、かつての無垢な輝きは完全に消え失せていた。
「落ち着け、マリアベル」
エドワルドが彼女の肩に手を置いた。しかしその声には、かつての自信は微塵もなかった。
「落ち着いていられるわけがないでしょう!?調査されたら、全てがばれてしまう!あの力の秘密が……!」
「僕が何とかする。君を守ると約束しただろう」
マリアベルは爪を噛み、部屋の中を歩き回った。
「でも……でも殿下、アウグスト様の件から……王家の資金のことも調べられているそうですわね」
エドワルドの顔が強張った。マリアベルへの贈り物に使った資金——あれは全て王家の特別予算から流用したものだった。
「それは……関係ない」
「関係なくありませんわ!私への贈り物……あれは王家のお金から出ていたのでしょう?連座してしまう……私まで巻き込まれる……!」
「マリアベル、君は何も知らなかった。僕がそう証言する」
しかしマリアベルの目は狂気じみた光を帯びていた。
「全て、あの女の仕業よ。リーゼロッテ・フォン・シュヴァルツェン……あの地味で退屈な女が、全てを仕組んだのよ!」
「……まさか、あのリーゼロッテが?」
「他に誰がいるというの!?アウグスト様の摘発も、パーティーでの暴露も、全部あの女の差し金に決まってる!」
エドワルドは言葉を失った。かつて自分が「愛は重荷だ」と切り捨てた婚約者の顔が、脳裏をよぎる。
「どうして……どうしてこんなことに……」
王太子の呟きは、誰の耳にも届かなかった。
三日後——王宮の大広間は、かつてない緊迫感に包まれていた。
普段は舞踏会や晩餐会に使われる華やかな空間が、厳粛な公聴会場へと姿を変えている。高い天井からは重厚なシャンデリアが吊り下げられ、その光が白大理石の床を照らしている。
正面には半円形に配置された審問席。中央に座るのは、白髭を蓄えた老魔道師グスタフ。
「これより、聖女マリアベル・エーデルシュタインの魔力使用に関する公聴会を開廷する」
傍聴席の一角に、リーゼロッテとレオンハルトの姿があった。淡い銀灰色の髪を優雅に結い上げたリーゼロッテは、完璧な令嬢の佇まいを保っていた。
「被告人、マリアベル・エーデルシュタインを入廷させよ」
重い扉が開く。二人の衛兵に挟まれて現れたのは、かつての聖女だった。
「私は潔白です」
審問席の前に立ったマリアベルは、凛とした声で宣言した。
「私の『奇跡』は神より賜った聖なる力。疑惑などあろうはずがありません」
傍聴席からどよめきが起こる。エルザがリーゼロッテに囁いた。
「お嬢様、まだ聖女を信じる者も少なくないようですね」
「ええ……でも、それも今日限りですわ」
グスタフが厳かな声で告げた。
「では、調査結果の報告を開始する」
老魔道師は杖を掲げ、空中に魔法陣を描いた。淡い青白い光が会場を照らし、複雑な波形が可視化される。
「これが、通常の治癒魔法の波形である」
美しい規則正しい波形。それは生命を慈しむ、暖かな光を放っていた。
「そして——これが、マリアベル・エーデルシュタインの魔力から検出された波形だ」
波形が変化した。歪み、捻じれ、まるで何かを貪り食うような禍々しい形に変わっていく。
「この波形は、古の禁術——『生命力搾取』のものと完全に一致する」
会場から息を呑む声が漏れた。
「この者の魔力には、他者の生命力を吸収した痕跡がある。彼女の『奇跡』は、神より賜った力ではない。他者の命を犠牲にして得た、禁じられた術だ」
「嘘です!」
マリアベルの悲鳴が響く。
「嘘です、嘘です!私は聖女です!神に選ばれた存在なのです!」
「これは陰謀です!私を陥れようとする邪悪な者たちの……!」
「静粛に」
グスタフの声が、騒然とする会場を鎮めた。
「魔力の分析結果だけではない。我々は、この禁術の被害者たちの証言も得ている。証人を入廷させよ」
数人の男女が静かに入ってきた。先頭を歩く青年が、証言台に立った。
「私は……八年前、聖ローレンツ孤児院にいました」
その声は震えていたが、確かな意志を帯びていた。
「マリアベルが来てから、私たちは次第に体が弱くなっていきました。原因不明の衰弱だと言われました。でも……あの子に近づくと、体の力が抜けていくような感覚があったのです」
「嘘よ!私はあなたたちを助けたのよ!怪我を治してあげたじゃない!」
「その『治療』の後、私は三ヶ月も寝込みました。今でも……季節の変わり目には体が動かなくなります」
次々と証人が立った。中年の女性が涙ながらに証言する。
「私の夫は、聖女様のお傍で働いていました。半年で、夫は立てなくなりました。治癒師は『まるで十年分の生命力が吸い取られたようだ』と……夫は、三十二歳で亡くなりました」
「違う……違います……私は何もしていない……!」
会場は静まり返っていた。レオンハルトがリーゼロッテに囁く。
「……証言が続いている。彼女にはもう逃げ場がない」
「ええ。五年前に孤児院の記録を見つけた時から、いつかこの日が来ると分かっていましたわ」
グスタフが最後の宣告を下した。
「以上の証拠により、マリアベル・エーデルシュタインが禁術『生命力搾取』を使用していたことは明白である。本委員会は、彼女を禁術使いとして正式に断罪する。連行せよ」
衛兵たちがマリアベルの両腕を掴んだ。
「お待ちください!私は……私は聖女なのです!王太子殿下の婚約者なのです!」
「殿下……殿下、助けて……!」
エルザが囁く。
「お嬢様、王太子殿下のお姿が見えませんわ。いつの間にか退席されたようです」
「……愛する女を見捨てて、逃げ出したのですわね。あの方らしい」
マリアベルが引きずられていく。その目が、傍聴席を狂ったように見回した。
そして——見つけた。
淡い銀灰色の髪。薄紫水晶の瞳。穏やかな、蜜のような微笑み。
「あなたが……!」
マリアベルの目が憎悪で燃え上がった。
「あなたが全て仕組んだのね!?リーゼロッテ・フォン・シュヴァルツェン!地味で退屈な、何の取り柄もないあなたが……!」
「覚えていなさい!絶対に許さない!あなたを必ず……!」
リーゼロッテは微動だにしなかった。ただ静かに、まるで美しい絵画のような微笑みを浮かべて、連行されていく聖女を見送っていた。
マリアベルが大広間から引きずり出された後、レオンハルトが声をかけた。
「終わったな」
「いいえ」
リーゼロッテは立ち上がり、皺一つないドレスの裾を整えた。
「まだ二人、残っていますわ」
「王太子殿下と……」
「ええ。そして、父」
レオンハルトは低い声で問うた。
「……次は王太子だな。横領の証拠は?」
「五年分、全て揃っていますわ。あの方が『お守り』と呼んでいた魔道具の中に」
「……お前は、最初から全てを計算していたのか」
リーゼロッテは窓の外を見つめた。夕暮れの空が血のように赤く染まっている。
「計算……そうですわね。でも、貴方という存在だけは、計算の外でしたわ」
エルザが声をかけた。
「お嬢様、外を。夕暮れの空が、まるで血のように赤うございますわ」
リーゼロッテの唇がわずかに歪んだ。
「……ふさわしい色ですわね。これから流れる『血』を祝福するかのよう」
聖女の断罪は、復讐の序章に過ぎない。本当の審判は、これから始まるのだ。
彼女の脳裏に、マリアベルの最後の絶叫がこだました。
『全てあなたの仕業……いつか必ず報いを受けるわ!』
リーゼロッテは静かに微笑むだけだった。
そしてその夜——王宮から急使が届いた。
王太子エドワルド・ローゼンクランツに対する、王家資金横領の正式な調査が開始されたという知らせだった。




