蜜と毒の境界線
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貴族たちが散り散りに退出していく中、王宮大広間には重苦しい空気だけが残されていた。
先ほどまでの華やかな祝宴は跡形もなく、シャンデリアの光だけが虚しく煌めいている。給仕たちが片付けを始める中、貴族たちは廊下や控えの間で、扇の陰から囁き合っていた。
「禁術だなんて、信じられませんわ」
「でも、グスタフ様の指摘ですもの……」
「王太子殿下、お気の毒に。あのような女に騙されていらしたなんて」
噂は炎のように広がっていく。聖女の失墜は、社交界最大の醜聞となるだろう。
人気のない廊下を、リーゼロッテとレオンハルトは並んで歩いていた。大理石の床に響く二人の足音だけが、静寂を破っている。窓から差し込む月光が、リーゼロッテの銀灰色の髪を淡く照らしていた。
先ほど会場を後にする際に交わした言葉の余韻が、まだ二人の間に漂っている。復讐について、母について——普段は決して見せない本音を零したリーゼロッテは、珍しく口数が少なかった。
レオンハルトが静かに口を開いた。
「……お前の母上のことは、俺も覚えている」
リーゼロッテの足が、僅かに遅くなった。
「エリーゼ様は……俺の命の恩人だ。幼い頃、熱病で死にかけた時、治癒術で救ってくださった」
「存じておりますわ。母からも聞いておりました」
リーゼロッテは窓辺に歩み寄り、月を見上げた。その横顔には、先ほど見せた哀しみの残滓がまだ漂っていた。
「母は……いつも他人のために力を使う人でした。孤児院への支援も、病気の子供たちの治療も。自分の身を省みず、弱い者を助け続けて」
「ああ」
「そして、そのせいで命を落とした」
リーゼロッテの声が、微かに震えた。
「政争に巻き込まれて。善意を利用されて。誰かの都合で、消された」
レオンハルトは黙って彼女の言葉を待った。
「私は……母のようにはなれませんわ。なりたくもない」
リーゼロッテは振り返った。月光に照らされたその瞳には、氷のような決意が宿っている。
「だから私は、善意ではなく策略で戦います。奪われる前に、奪い返す。それが私の選んだ道ですわ」
「……そうか」
レオンハルトは一歩近づき、リーゼロッテの傍に立った。
「先ほども言ったが、お前がどんな道を選ぼうと、俺は傍にいる。その言葉に嘘はない」
その言葉に、リーゼロッテの表情が僅かに和らいだ。ほんの一瞬、策略家の仮面が緩んだように見えた。
二人は再び歩き出した。王宮の出口へと向かいながら、リーゼロッテは静かに呟いた。
「次は——調査委員会ですわね。そこで全てを暴く」
月光が廊下を照らす中、二人の影が長く伸びていた。
その夜、王宮の一角にあるマリアベルの私室は、重苦しい空気に包まれていた。
蝋燭の炎が揺らめく中、マリアベルは鏡台の前に座り、自分の顔を見つめていた。蜂蜜色の髪は乱れ、翡翠色の瞳には恐怖と怒りが渦巻いている。
「力が……封じられた」
あの瞬間を思い出すだけで、全身が震えた。老伯爵に手を翳した時、いつもなら自然と流れ込んでくるはずの生命力が——何も感じられなかった。まるで見えない壁に阻まれたように。
「誰が……?」
マリアベルは唇を噛んだ。あの場に自分を陥れようとする者がいた。誰だ?考えられる敵は——
「あの女?」
ふと、リーゼロッテの顔が脳裏に浮かんだ。パーティーの間、静かに微笑みを浮かべていたあの銀灰色の髪の女。婚約破棄された元婚約者。
マリアベルは鼻で笑おうとした。あんな地味で控えめな女に、何ができる?
しかし——
思い返せば、あの女は妙に落ち着いていた。婚約破棄された後も、今夜の婚約発表パーティーでも。まるで全てを見透かしているかのように。
疑念が、じわじわと心に染み込んでいく。
マリアベルは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。月が冷たい光を投げかけている。
「私はここまで来たのよ。孤児院から、男爵家に、そして王太子殿下の婚約者に。ここで終わるわけにはいかない」
彼女は拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
「リーゼロッテ・フォン・シュヴァルツェン……あなたが私の邪魔をするなら——」
マリアベルの唇が、三日月のように歪んだ。
「消えてもらうわ」
その言葉には、聖女の慈愛など欠片もなかった。あるのは、這い上がってきた者だけが持つ、生き残りへの執念。そして、自分の地位を脅かす者への、純粋な殺意。
マリアベルは机に向かい、羽根ペンを取った。協力者を探さねばならない。リーゼロッテの弱点を見つけ出し、完膚なきまでに叩き潰すために。
「まずは……あの女の家族関係を調べましょう」
ペン先が羊皮紙の上を滑り始めた。その筆致には、戦いに臨む者の冷徹さが宿っていた。
翌朝、シュヴァルツェン伯爵邸の書斎には、朝日が冷たく差し込んでいた。
ハインリヒ・フォン・シュヴァルツェンは、机の上に置かれた封書を見つめていた。銀色の封蝋には、見覚えのない紋章が刻まれている。しかし中の書簡に記された署名——マリアベル・エーデルシュタイン——は、彼の眉を僅かに動かすに十分だった。
『伯爵閣下。娘御を制御できないようでしたら、私どもにお任せください』
短い文面だった。しかしその意味するところは明白だ。
ハインリヒは書簡を机に置き、窓の外を見やった。灰色の瞳には、何の感情も浮かんでいない。
「あの娘か……」
最近の娘の動きは、彼の予想を超えていた。王太子との婚約破棄、ヴァイスブルク公爵家への庇護、そしてアウグスト・フォン・ゲルトナーの逮捕——全てが、偶然とは思えない。
娘は何かを企んでいる。そしてその標的の中に、自分も含まれているかもしれない。
ハインリヒの背筋を、冷たいものが走った。恐怖だ。自分が道具として育てた娘に対する、恐怖。
しかし同時に、別の感情も湧き上がってくる。自己保身の欲望。立場を守りたいという、本能的な欲求。
「聖女様は……娘を排除したいと」
ハインリヒは書簡をもう一度読み返した。利用できるものは利用する。それが彼の生き方だった。たとえそれが、実の娘を売ることになろうとも。
ハインリヒは書斎の奥、鍵のかかった引き出しを開けた。中には古い書類と、小さな青い瓶が眠っている。
瓶を手に取り、光に透かす。中の液体は、水のように無色透明だった。
「これを使ったのは……もう五年前か」
独り言のように呟く。その声には、感傷など欠片もなかった。ただ事実を確認するような、乾いた響きだけがあった。
あの時、妻のエリーゼは邪魔だった。王宮の政争に首を突っ込み、余計な敵を作り、家の立場を危うくしていた。だから消した。それだけのことだ。
娘のリーゼロッテは——あの時は従順な道具になると思っていた。しかし今は違う。
ハインリヒは書簡を握りしめた。その手が、かすかに震えている。
「あの娘は……」
月明かりが窓から差し込み、彼の痩せぎすな顔を照らした。表情筋が動くことのないその顔に、一瞬だけ何かが過ぎった。恐怖か、後悔か、それとも——
「母親と同じ運命を辿らせるか」
その呟きは、誰にも聞かれることなく、夜の闘に溶けていった。
書斎の蝋燭が揺らめき、ハインリヒの影を壁に大きく映し出す。その影は、まるで娘に迫る脅威を暗示するかのように、不吉に歪んでいた。




