第9話 評価が一つ下がる日
ダークスーツの首元を締め付けるネクタイが、市民ホールの蒸し暑い空気の中でひどく息苦しく感じられた。
土曜日の午後一時過ぎ。榊原徹は、パイプ椅子がずらりと並べられた客席の中段で、手元のスマートフォンを見つめていた。画面には、昨日人事部から届いたメールが表示されている。
『昇進面談の時間を一四時から一五時に変更する件、承知いたしました。役員日程の再調整となりますので、当日は時間厳守にてお願いいたします』
末尾には、人事部長と担当役員の名前が並んでいた。榊原は一度閉じたメールを、もう一度開いた。
面談そのものを欠席することはできなかった。役職手当が上がれば、住宅ローンの返済を前倒しでき、娘の教育費にも余裕が出る。
だが同時に、娘の発表会を完全に無視することもできなかった。あの夜、泣きじゃくる娘の顔を見てから、どうしても「仕事だから仕方ない」と割り切ることができなくなったのだ。
結果として、榊原は時間を一時間だけずらしてもらうという妥協案を選んだ。メールの宛先に並んだ役員たちが、その変更をどう受け取ったかは分からない。
「始まるわよ」
隣に座っていた妻が、小声で榊原の腕を小突いた。
榊原はスマートフォンを内ポケットにしまい、顔を上げた。ホールの照明が落ち、ステージの幕がゆっくりと上がっていく。
小学二年生の児童たちが、思い思いの衣装を着てステージ上に並んでいる。その端に、見覚えのある物体が置かれていた。
あの夜、集積所の隅にぽつんと残されていた、大きなお城の段ボール工作だ。
一度捨てられかけたためか、お城の壁面にはガムテープで不格好に補修された跡があった。屋根のピンク色の折り紙も少し破れている。それでも、照明を浴びたそのお城は、劇の舞台装置としてしっかりと機能していた。
王女様役の娘が、緊張した面持ちでお城の窓から顔を出し、たどたどしいセリフを口にする。
榊原は再びスマートフォンを取り出し、カメラを起動してその姿を数枚撮影した。自分の肉眼で見るよりも、画面越しのデジタルデータを通した方が、記録として確実に残る気がしたからだ。
娘の出番が終わり、次のシーンへと移ったところで、榊原は腕時計に目を落とした。午後一時四十分。本社に向かうにはギリギリの時間だ。
榊原は膝の上に置いていたカバンを持ち上げ、中腰になって席を立った。
「ちょっと、もう行くの?」
妻が驚いたように見上げてきた。
「ああ。一五時から本社で面談があるんだ。俺の出番はここまでだろ」
「最後まで見ないの? エンディングで全員で歌を歌うのに」
「これ以上遅れたら、本当に昇格がふいになる。写真は撮ったから、後で見せてくれ」
榊原はそれだけ言い残し、足早に客席の通路を抜けた。
妻の顔には、明確な不満が残っていた。娘はこちらを見ないまま、舞台の次の場面へ走っていった。
ホールの外の熱波を浴びながら、榊原は腕時計を確認し、駅までの最短経路を検索した。
週明けの月曜日。
榊原はオフィスの自席で、いつものように勤怠管理システムのダッシュボードを睨んでいた。
先週、強制的に業務を引き継がせた若手の長谷川の残業時間は、どうにか労基署の警告ラインを下回るペースで推移していた。赤い棒グラフは先週から横ばいになり、長谷川の顔色もいくらかマシになっている。
しかし、その日の夕方。榊原は人事部長に呼ばれ、会議室で短い非公式の内示を受けた。
「榊原くん。今回の昇進は見送りになったよ。次長ポストには、隣の課の木下が就くことになった」
「今回は木下くんが主導した大型案件の評価が大きかった。君も次を目指してくれ」
娘の発表会に出るためのスケジュール変更が評価に響いたのかどうか、人事部長は言わなかった。
とにかく、榊原の値札は上がらなかった。来月からも、今の給料のまま、変わらない重圧に耐え続けなければならない。
自席に戻った榊原は、デスクトップに表示されたエクセルの表をじっと見つめた。
落ち込んでいる暇はなかった。来月にはまた新しい四半期の売上目標が設定される。チームの予算を達成し、長谷川のように無理をする部下を出さないよう業務を割り振るためには、もっと綿密な数字の計算が必要だ。
榊原はキーボードに両手を置き、カチャカチャと乾いた音を立ててセルに数字を打ち込み始めた。
数日後の、よく晴れた朝。
榊原は可燃ごみの指定袋を持って、マンション下の集積所へ向かった。
初夏の日差しはすでに肌を刺すように強く、集積所の周りには生ごみの酸い臭いがむっと立ち込めていた。青いパッカー車が停まり、二人の作業員が黙々と袋を投げ入れている。
そのうちの一人、青木修が、榊原の姿に気づいて小さく会釈をした。首に巻いたタオルはすでに汗でぐっしょりと濡れている。
榊原が無言でごみ袋を差し出すと、青木は両手でそれを受け取った。
「あ、お客さん」
青木が、ふと思い出したように口を開いた。
榊原は怪訝に思って足を止めた。
「あの時の工作、壊れませんでした?」
青木は、額の汗を手袋の甲で拭いながら尋ねてきた。
あの夜、青木自身が残置札を貼って置いていった段ボールのお城のことだ。彼は、ルールに従って置いていったごみがその後どうなったか、純粋な疑問として尋ねてきただけらしかった。
目の前の臭いごみを片付ける途中で、少しだけ気になったことを口にしただけらしい。
榊原は、青木の手元にある自分のごみ袋を見つめ、それから短く答えた。
「大丈夫だった」
「そうですか」
青木はそれ以上何も言わず、榊原のごみ袋をパッカー車の奥へと放り込んだ。回転板が唸りを上げ、袋を無残に押し潰していく。
榊原はネクタイを締め直し、駅へと向かう歩道に足を踏み出した。
昇進を逃し、娘との関係も、妻との関係も、まだ気まずさが残っている。
背後で遠ざかるパッカー車の重いエンジン音を聞きながら、榊原は頭の中で、今日の午後の会議で提示する売上の数字を組み立て始めていた。




