第8話 捨てるはずじゃなかったもの
洗面所の鏡の前で電動シェーバーを顎に当てながら、榊原徹の頭の中はすでに会社での数字の計算に支配されていた。
水曜日の朝。今月の営業部の売上目標達成率は、現在八十二パーセント。昨日の夕方に長谷川の案件を田中に引き継がせたことで、少しだけ進捗に遅れが出るかもしれないが、労基署の監査リスクを考えれば適切な判断だったはずだ。
そして何より、榊原には今週末に重要な「昇進面談」が控えていた。
次長ポストへの昇格。それが叶えば、基本給と役職手当が跳ね上がり、残り三十年近くある住宅ローンの返済計画も大きく前倒しできる。家族を養い、今の生活水準を維持するためには、会社からつけられる「値札」を上げ続けるしかない。
口の周りをタオルで拭き、リビングへ向かうと、妻が慌ただしく動き回っていた。
「おはよう。……昨日の夜言ったやつ、出してくれたか?」
榊原がコーヒーをカップに注ぎながら尋ねると、妻はシンクを洗いながら顔も向けずに答えた。
「出したわよ。納戸にあった段ボール、全部でしょ。朝から重くて大変だったんだから」
「悪いな。でも、ずっと放置してて邪魔だったからな」
昨夜、残業で深夜に帰宅した榊原は、納戸を開けた際にうず高く積まれていた段ボール箱の山を見て無性に腹が立ち、「明日は資源ごみの日だから、全部出しておいてくれ」と妻に一方的に指示を出していたのだ。
榊原はスーツの上着を羽織り、カバンを持って玄関を出た。
マンションの一階にある集積所の前を通ると、妻が運び出した大小の段ボールが、ビニール紐で不格好に縛られて山積みになっていた。榊原はその山を一瞥しただけで、中身が何であるかなど気にも留めず、駅へと歩き出した。
駅までの道すがら、じっとりとした熱気を帯びた風が首筋を撫でていった。夏の朝の湿度は、スーツ姿の人間にとってはそれだけで体力を削られる不快なものだ。
商店街の入り口付近で、青い資源回収車がハザードランプを点滅させて停まっていた。今日は水曜日。古紙や段ボールを集めて回る補助便だ。
車の後部では、作業員たちが額から大粒の汗を流しながら、山積みになった古雑誌や段ボールの束を次々と放り込んでいた。
その中の一人に見覚えがあった。先日、榊原が出そうとした板を「サイズ超過だ」と言って突き返してきた、青木という名札の男だ。
青木は、雨を吸ってひどく重くなったらしい古い週刊誌の束を両手で抱え上げていた。十字に縛られた細いビニール紐が、青木がはめている厚手のゴム手袋に深く食い込んでいるのが見えた。顔は汗でテカテカに光り、首に巻かれたタオルは泥と埃でどす黒く変色している。
榊原は、その泥臭い肉体労働の光景を横目で見ながら、冷ややかに考えた。
(あんな効率の悪い重労働を、この暑い中よくやるよ)
彼らには明確な売上目標も、数字で測られるシビアな昇進もないのだろう。言われたごみを、言われた通りに車に詰め込むだけ。
榊原は、自分の仕事が頭脳と管理能力によって数千万、数億という数字を動かしていることに改めて優越感を抱いた。自分は彼らとは違う。役職という値札に見合うだけの、高度な責任を背負っているのだ。榊原はネクタイを少しだけ緩め、改札へと向かう足取りを速めた。
オフィスに着くと、午前中のうちに人事部から社内メールが届いた。
『昇進面談の実施日時について』
件名を見た瞬間、榊原の鼓動が少しだけ早くなった。メールを開くと、簡潔な文面で日時が指定されていた。
『今週の土曜日、午後二時より。本社六階の第三会議室にて』
役員も同席する休日の特別面談だ。ここでどんな数字の成果をアピールし、どう自分を売り込むかで、今後の家族の生活設計が大きく変わる。
榊原は手元のスマートフォンを取り出し、スケジューラーの土曜日の欄に「14:00〜 本社・昇進面談」と素早く入力した。そして、人事部へ「承知いたしました。よろしくお願いいたします」と即座に返信を打った。
よし、これでいい。榊原は深く息を吐き、部下の残業時間データの確認作業へと戻った。
その日の夜。
珍しく午後八時台に退社できた榊原は、駅前のスーパーで缶ビールを買ってからマンションへ帰り着いた。
エントランスへ向かう途中、ふと集積所の方へ目をやると、朝にはたくさん積まれていた段ボールの山はすっかり消えていた。
だが、その隅のコンクリートの壁に寄りかかるようにして、不自然な形をした段ボールの塊が一つだけポツンと残されているのに気づいた。
「……なんだあれ?」
近づいてみると、それはスーパーの空き箱などを切り貼りして作られた、一メートル近い高さのある「お城」の模型だった。窓の部分がカッターでくり抜かれ、屋根にはピンク色の折り紙が貼られている。明らかに、子供が図工の延長で作ったような代物だった。
そのお城の壁面には、容赦のない赤い『残置札』がホッチキスで留められていた。
『大型段ボール工作はサイズ超過のため回収できません。解体して束ねるか、粗大ごみへ』
事務的な文字でチェックが入れられている。おそらく、あの青木たちの班が、ルールの規定通りに置いていったのだろう。
榊原は舌打ちをした。
(だから、工作だろうがなんだろうが、ごみはごみだろうに。持って行けよ)
榊原は仕方なく、その大きなお城の模型を小脇に抱え、エレベーターに乗って自分の部屋へと戻った。
玄関のドアを開けた瞬間、ただならぬ気配を感じた。
「ただいま。……おい、集積所にこれ、残されてたぞ」
榊原がお城の模型を廊下に置くと、リビングからドタドタと足音が近づいてきた。
小学二年生の娘だった。娘は廊下に置かれたお城を見るなり、ワッと声を上げて泣き出し、そのままお城にすがりついた。
「あーあ、だから言ったじゃないの」
リビングの奥から、腕を組んだ妻が苛立たしげに姿を現した。
「どういうことだ?」
「あなたが昨日の夜、納戸の段ボールを『全部出せ』って急に言うからよ。朝、慌てて縛って出したら、あの子が隠すように作ってた工作まで一緒に出しちゃってたのよ」
「俺のせいかよ。中身くらい確認して出せばいいだろ」
榊原はカチンときて言い返した。
「こっちは毎朝、朝食の準備とゴミ出しで戦争なのよ。あなたが手伝ってくれるわけでもないのに!」
「俺だって疲れてるんだ。だいたい、こんなガラクタみたいな段ボール、また新しい箱をもらってきて作ればいいじゃないか」
榊原が吐き捨てるように言うと、泣いていた娘が弾かれたように顔を上げた。
「ガラクタじゃない! これ、土曜日の発表会の劇で使うお城だったのに!」
「……え?」
榊原の動きが止まった。
「土曜日の劇で、私が王女さまやるから、一生懸命作ってたのに……パパのばか!」
娘はそう叫ぶと、お城の模型を抱えたまま自分の部屋へと駆け込んでいき、バタンとドアを閉めた。
榊原は呆然と立ち尽くした。
土曜日の発表会。そんな予定があっただろうか。妻から聞いていたような気もするが、日々の業務の数字やローンの額に気を取られ、完全に記憶から抜け落ちていた。
榊原はポケットからスマートフォンを取り出し、スケジューラーのアプリを開いた。
今週の土曜日の欄。
そこには、昼間に入力した『14:00〜 本社・昇進面談』という文字だけが、無機質に表示されていた。娘の発表会の時間など、どこにも書かれていない。
血の気が引くのを感じた。
部下の残業時間を分単位で管理し、住宅ローンの残債を月単位で計算してきた。家族を守り、養うために、自分は常に正しい数字を追いかけてきたはずだった。
それなのに、家族の予定という一番身近で大切な数字を、手帳に書き込むことすらしていなかったのだ。
「あなた、土曜日……ちゃんと来てくれるわよね?」
妻が、少し不安そうに榊原の顔を覗き込んだ。
榊原はスマートフォンの画面を握りしめたまま、すぐには答えることができなかった。「面談をずらしてくれと人事に頼む」という言葉が、どうしても喉から出てこなかった。
役職という値札と、娘との約束。
玄関の冷たい照明の下で、榊原は気まずい沈黙を落としたまま、ただ立ち尽くしていた。




