第7話 課長の値札
四十二歳の榊原徹にとって、社会人としての生活は常に数字との神経戦だった。
郊外に買った分譲マンションの、三十五年にわたる住宅ローンの残債額。営業課長として背負っている、部署の月間売上目標。そして、八人の部下たちにかかる人件費。
三十代前半の頃、会社の業績悪化に伴うリストラの嵐が吹き荒れた。その時、役職を持たず、数字の成果を出していなかった同期たちが次々と肩を叩かれていくのを、榊原は冷や汗をかきながら見ていた。
同期の名前が一人ずつ社内名簿から消えていく中で、榊原は営業成績を上げ、課長の席まで這い上がった。次に業績が傾いた時、住宅ローンと家族を抱えたまま切られないためには、その席を守り続けるしかない。
夏の朝、出勤前のスーツ姿のまま、榊原はマンションの一階にある集積所へ向かった。
手には、青半透明の指定ごみ袋が一つ。中には、昨日の夜に妻に文句を言われながら解体した、古いカラーボックスの板が詰め込まれている。長い板を蹴り折って無理やり袋に押し込んだため、ビニールが不格好に突っ張っていた。
集積所には、すでに青いパッカー車が停まっていた。
車の後部では、回転板がグアアアと低い唸りを上げ、街のごみを圧縮している。むっとするような夏の朝の熱気に、生ごみのツンとする酸い臭いが混ざり合い、榊原は思わず眉をひそめた。
ごみ袋をネットの下に滑り込ませようとした瞬間、横から伸びてきた厚手のゴム手袋に遮られた。
「すみません、お客さん」
作業着姿の男だった。三十代後半くらいの、がっしりとした体格の男だ。胸元の名札には「青木」とある。
青木は袋の外から板の感触を軽く確かめると、首を横に振った。
「これ、木材の規定サイズを超えてるので、うちの班では回収できません」
「は? いや、袋に入ってるじゃないか」
「袋に入っていても、五十センチを超える板は粗大ごみの扱いです。通常のパッカー車だと巻き込んだ時に機械が壊れることがあるので。粗大ごみの予約をして、別に出してください」
青木は全く感情を交えない、事務的なトーンでそう告げると、手早く赤い『残置札』を袋の結び目に巻き付けた。
榊原の胸の奥で、苛立ちがチリッと音を立てて燃えた。
「融通が利かないな。それくらい、どうにか押し込めば入るだろう。指定袋に入れてるんだ。持っていくのが仕事じゃないのか」
低い給料で、誰にでもできる単純作業をしているはずの男から、ルールを盾に指示されることがひどく不快だった。社会的な値札で見れば、自分のほうがずっと上の階層にいるはずだ。
だが青木は、榊原の嫌味に対して怒ることも恐縮することもなく、「規則ですから」とだけ言い、次のごみ袋を車に投げ込んだ。
「……チッ」
これ以上こんなところで時間を無駄にはできない。榊原は残置札の貼られた袋を放置したまま、忌々しげに舌打ちをして、足早に駅へと向かった。
午前十時。空調の効いたオフィスの自席で、榊原はノートパソコンの画面を厳しい顔で睨んでいた。
画面に表示されているのは、営業部の勤怠管理システムのダッシュボードだ。
部下たちの今月の累計残業時間が、棒グラフで示されている。その中で一つだけ、突出して伸びている赤いグラフがあった。入社三年目の若手、長谷川の数字だ。
今月はまだ二十日だというのに、長谷川の残業時間はすでに六十二時間に達しようとしている。このペースでいけば、過労死ラインと呼ばれる八十時間を確実に超える。
榊原は内線電話を手に取り、長谷川を会議室へ呼び出した。
「長谷川。お前、今月どういう働き方をしてるんだ。数字見てるか?」
会議室に入るなり、榊原は単刀直入に切り出した。長谷川は目の下に濃いクマを作りながらも、必死の形相で答えた。
「すみません。でも、A社とB社のコンペが重なってて……今月はどうしても目標を達成したいんです。気合いで乗り切りますから、やらせてください」
若手特有の、根拠のない万能感と焦り。かつての自分を見ているようで、榊原は少しだけ胸が痛んだ。だが、課長としての顔は崩さない。
「気合いの問題じゃない。数字が限界だと言ってるんだ」
榊原は手元のタブレットを開き、長谷川の労働時間の推移グラフを突きつけた。
「これ以上お前に残業させれば、労基の監査に引っかかる。それに、お前が倒れたら誰が責任を取ると思ってるんだ。お前自身じゃない、俺だ。お前はチーム全体の数字と安全を危険に晒してるんだぞ」
「でも……」
「B社のコンペの資料作成は、今日からサブの田中に引き継げ。お前はA社一本に絞れ。これは提案じゃない、業務命令だ」
長谷川は悔しそうに唇を噛んだが、やがて小さく「……分かりました」と頷いた。
榊原は長谷川の担当表からB社の行を外し、田中の欄へ移した。六十二時間という赤い棒は、それ以上伸ばさせない。
会議室を出る長谷川の背中を見送りながら、榊原は小さく息を吐き、ネクタイの結び目を直した。
昼休み。処理施設近くの木陰に停めたパッカー車の車内で、森川湊はコンビニの唐揚げ弁当をつついていた。
窓は全開にしてあるが、初夏のまとわりつくような風が入り込んでくるだけで、涼しくはなかった。
「ああいう、ちょっと役職ついてるみたいな偉そうなサラリーマン、ほんと嫌なんですよね」
森川は、朝の集積所での出来事を思い出して愚痴をこぼした。ルール違反のごみを出そうとして、修に注意されると露骨に見下した態度を取ってきた、あのスーツ姿の中年男だ。
「自分が偉いとでも思ってるんですかね。ただの会社員なのに」
運転席の田辺は昼寝をしており、助手席の森川の隣には、修が座って同じように弁当を食べていた。修は森川の言葉に相槌を打つでもなく、もくもくと卵焼きを咀嚼している。
森川は割り箸の先で、残ったご飯を無意味にいじくり回した。
偉そうなサラリーマンを否定しながらも、森川の頭の片隅には、保留にしたままの転職スカウトの数字がこびりついている。年収が上がる。歩合がつく。もしかしたら、数年後にはあのスーツの男のように、何らかの役職という値札をぶら下げて歩いているのは自分かもしれない。
奨学金の返済。母親への仕送り。貧しさは、人の心から余裕を奪っていく。
「でも……」
森川は、誰に言うともなく、自嘲気味にこぼした。
「金とか役職って、結局、自分や家族を守るためにも要るんですよね。それがないと、何も守れないじゃないですか」
それは、昇進や年収アップと無縁に見える修への当てこすりになるかもしれないと、口に出してから気づいた。
だが、修は怒ることも、貧しさを美化するような名言を吐くこともなかった。
修は最後の唐揚げを飲み込み、お茶で口の中を流し込むと、森川の方を見てあっさりと言った。
「そうですね。要ると思います」
「……え?」
「お金は、守るために要ります。ないと困りますから」
本当に、ただそれだけだった。修は森川の抱える現実的な悩みを一切否定せず、かといって過剰に同情することもなく、弁当の空き箱をスーパーの袋に丁寧にまとめた。
森川は拍子抜けしたように、修の横顔を見つめた。
金は要る。修自身もそれを肯定した。では、なぜ修は、給料を増やす話をしないまま、毎日同じ手順で自分の生活を続けていられるのだろうか。
森川の胸の中に、また一つ、答えの出ない疑問が積み重なっていった。




